『サンタクロースの大旅行』葛野浩昭(岩波書店)
「サンタは昔、ブタの橇に乗っていた!」
クリスマスという社会現象には以前から多大の関心がある。だから、この季節になると血が騒いで仕方がない。前世はトナカイだったのではないかとおもうほどだ。じじつ、昨年はさる研究会でトナカイの着ぐるみを着て「クリスマス・ソングの文化研究」というような発表をした。
トナカイといえばサンタクロースである。でっぷり肥って白髭をのばし、赤い服を着て、トナカイの牽く橇に乗ってやってきて、よい子にプレゼントを配るやさしいおじいさん。こうしたイメージを共有しないひとは、いまの日本ではほとんど存在しないだろう。サンタクロースは、だれもが知っているこの季節のアイドルだ。本書『サンタクロースの大旅行』は、そのイメージがどのような歴史的プロセスを経て形成されてきたのかを手際よく教えてくれる好著である。
サンタクロースのモデルは、紀元4世紀に実在したキリスト教の司教、聖ニコラウス。いまのトルコあたりに住んでいた。えっ、サンタクロースの本場はフィンランドじゃなかったの? という疑問は当然湧く。まさにサンタクロースが政治的・社会的力学の歴史的産物であるゆえんである。そのフィンランドでは、サンタのおじさんが乗った橇は、トナカイではなく、ブタが牽いていた。
著者によれば、聖ニコラウスという聖者のイメージは、日本でいえば秋田のナマハゲみたいなものだった。両者とも、年の変わり目に人間の世界にやってくる神々であり、その神々が仮面仮装のおどろおどろしい姿をしており、子どもたちを脅かしたり褒美をくれたりするのだった。このことは、キリスト教がさまざま民俗信仰や、社会や文化のなかで折衝をくり返すなかで、聖ニコラウス像が形成されてきたことを意味している。ところが、今日世界で共有されるサンタクロース像からは、もともと聖ニコラウスがもっていた魔性や残忍性の部分がきれいに殺菌消毒され、ただただひたすら気前がよくてやさしいおじいさんに変身した。その変身を決定づけることになった直接の起点は、20世紀前半のアメリカ資本主義だった。「わしは、どこへだって出かけるぞ」。1943年にコカコーラ社の広告に登場したサンタのおじさんは、こう宣言したとおり、世界中を駆けめぐることになった。コーク片手に。
アメリカ資本主義の伝道師であり、消費社会の啓蒙家である20世紀アメリカ的サンタのおじさんは、世界各地でどのように迎えられたのか。1951年のクリスマスには、フランスのディジョンで、サンタクロースが火刑に処された。聖職者たちによって決定されたこの行為は、第二次世界大戦後の「アメリカ化」から伝統的なクリスマスのイメージを守るために、わざわざ子どもたちが見守るなかで挙行された。だが、こうした排斥の蛮行は、聖職者たちの目論見とは裏腹に、クリスマスという儀礼の永遠性を明るみにすることになった、と人類学の巨人レヴィ=ストロースは記している(「火あぶりにされたサンタクロース」『サンタクロースの秘密』中沢新一訳、せりか書房に所収)。アメリカから輸入されたクリスマスの習俗にたいして、フランスのひとびとは一方で批判を口にしつつも、もう一方ではそれがどこに由来するかなどあまり考えず、むしろみずから積極的にそれをたのしむようになっていた。
日本についてはどうだろうか。わたしたちは、日本のクリスマスには宗教心のかけらもなく、消費主義に蹂躙されたただの商売にすぎないなどと訳知り顔で批判する。と同時にその一方で、クリスマスをたのしんでもいる。勤め帰りに不二家のお店にケーキを買いに立ち寄ったり、子どもたちへ贈るプレゼントを物色したり、彼女をつれていくレストラン選びに余念がなかったりする。山下達郎の名曲「クリスマス・イヴ」はだてに20年連続してオリコンのチャート入りをしているわけではないのだ。そして、小さな子どもたちには、サンタクロースの来訪を信じ込ませようとするだろう。
一見すると矛盾するかのようなこの二つの事象は、しかし矛盾ではない。わたしたちはクリスマスという習俗を利用したりされたりしているというよりも、習俗それ自体を生き抜いているからだ。
たしかにわたしたちのクリスマスは、20世紀的な消費社会のなかで再編成されたものにちがいない。その意味では、わたしたちのクリスマスは、最終的には資本の枠組みに回収されていく消費行為以外のなにものでもない。この枠組みで考えるかぎり、わたしたちが感じるクリスマスのたのしみは、あくまで、その枠組みのなかでそう感じさせられているにすぎない、ということになるだろう。わたしたちは、あらかじめどこかでだれかによってあつらえられたクリスマス的社会構造のなかで、ただ消費行動に走らされている操り人形のようなものだ。
けれども、それだけではない。あらゆる実践がそうであるように、わたしたちは、クリスマス的習俗世界に投げ込まれていると同時に、みずからをその世界に投げ込もうとする。だからクリスマスの実践は、あたえられた枠組みを再生産するばかりではなく、それをズラしたり編みかえたりしていく契機となりうるのだ。だからこそ、ブタがトナカイに入れ替わったり、陰と陽をもつナマハゲ的な冬の鬼が、寛容で気前のよいおじいさんに変身したりしうる。
こうした実践の営みは、むろん今日も不断につづけられている。本書のなかでは、サンタクロースを主題にしたテーマパークや(日本にもある)、サンタクロースが国家事業化しつつあるフィンランドのようすなど、観光人類学的な知見も紹介されているが、これらもまた、サンタクロースという既存のイメージに身をまかせつつも、それを内側から編みかえていく例だといえるだろう。
だから、本書が教えてくれるのは、たんにサンタクロースの由来物語というだけではない。クリスマスという習俗とサンタクロースというひとつの人物像を契機として、人間がそこにどのような意味をつむぎだそうとしてきたのか、その営みが織りなすダイナミクスにほかならない。千年以上におよぶこうした営みの末裔としてわたしたちは、今年もまたクリスマスを生きるのである。
メリー・クリスマス!