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『複雑適応系における熱帯林の再生-違法伐採から持続可能な林業へ』関良基(御茶の水書房)

複雑適応系における熱帯林の再生-違法伐採から持続可能な林業へ

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 1978年以来、もう何回ルソン島を上空から見たことだろうか。見るたびに、森が消え、禿げ山化するのがよくわかった。消えていった森の木の多くが、日本に輸出されたことはフィリピン人も知っていた。かつて、日本をはじめて訪れたフィリピン人が、日本に豊かな森があることに驚いて、言ったことばが忘れられない。「日本には木がなくなったから、フィリピンから輸入したのだと思った」。その日本の木材は、阪神・淡路大震災後でさえ売れなかった。片や国土の大半の森を失い、洪水などの自然災害が発生しているフィリピン、片や森の手入れが行き届かず荒廃し、自然災害の原因になっている日本、なにか変だと感じるのが当たり前だろう。


 著者、関良基は、森林資源が枯渇し、違法伐採から持続可能な森林管理へとシステムが変化するルソン島でフィールドワークをおこない、その「事例研究を通して、違法伐採問題を解決するための普遍性のある解決策を提起する」ために藻掻いている。そう、「藻掻いている」という表現が、本書にもっともふさわしいことばかもしれない。「まえがき」から「「私的管理か共同管理か」という二者択一を迫るような議論を乗り越え、「私」と「共」をアウフヘーベンすることを目指す」という、なにやらわけのわからない「アウフヘーベン」なることばが説明抜きで登場する。それを「止揚」といわれてもわからないし、ヘーゲルを思い浮かべて頷く人も少ないだろう。また、本文を読んでいくと、「ミーム」ということばがキーワードとして多用されている。これも、「自己複製子」といわれてもわからない。わからないながらも、著者が一所懸命理論武装して、政策提言までもっていこうとしていることはよくわかる。そして、そのためには、総合的アプローチと複雑適応系としての把握が重要であることもわかった。そして、その結論が、終章の「まとめと政策提言」である。


 わたしは、林業のことはよくわからない。著者の提言が、「熱帯林の再生」のために有効であるのかどうか、判断するだけの知識はない。しかし、著者の「藻掻き」の意味は、すこしわかる。それは、著者自身が述べているつぎのことばからよくわかる。「私が商業伐採跡地の開拓コミュニティと向き合ってきた調査経験を通して帰納的にいえることは、地域住民は、地域社会を取り巻く多種多様な諸条件に対し、必至になって適応しようとしている。その中で、うまく適応できず「破壊的」と捉えられるような資源利用・土地利用を行うこともあるし、うまく適応できた場合には、十分に持続可能な利用を行うこともある。普遍法則は存在しないし、発展経路も、そのときどきの諸条件の作用の仕方に依存して大きく異なってくる。二次林と人間社会を含む系の挙動は、偶然性にも左右されつつ、流動的で複雑な軌跡を描くのである」。つまり、いくら理論武装しても、実際に現場で生活している人びとには、かなわないということだ。そのことを、フィールドワークを通して理解しているだけに、著者の提言には真実味があり、耳を傾けたくなる。しかし、住民は著者の想像をはるかに超えるたくましさで、現実に向き合っている。それが、著者が願っている「持続可能な林業」へとつながるといいのだが・・・。そのためには、本書のような地道な研究と、その研究成果を充分いかせるだけの「もっと大きな力」が必要だろう。


 ところで、バージンパルプ100%のトイレットペーパーが市場にあふれ、再生紙使用のものが片隅に追いやられていることは、この「持続可能な林業」と関係ないのだろうか。バージンパルプは、どこからきているのだろうか。再生紙の原料は、ほんとうに不足しているのだろうか。両者の価格差があまりないのは、どうにかならないのだろうか。市場原理を超えた「もっと大きな力」が必要なのではないだろうか。消費者が身近にできることはなにか、「もっと大きな力」をつくりだせる源はなにか、これからの持続可能な社会に生きる人、みんなが考えていかなければならないことだろう。


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