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『対馬藩江戸家老-近世日朝外交をささえた人びと』山本博文(講談社学術文庫)

対馬藩江戸家老-近世日朝外交をささえた人びと

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 近世(初期近代)の外交について知りたくて、本書を開いた。日本史研究は、文献も研究者も多く、具体的な事例が示されるのでわかりやすく、勉強になる。本書も、対馬藩江戸屋敷にあった「宗家史料」を使い、日朝関係をとりもった対馬藩の実情が具にわかり、興味深かった。そして、近世という時代のアバウトさも理解できた。


 近世という時代の外交が、国際的に認知されたものでもなければ、当事国同士の了解のもとに行われていたわけでもなかったことが、本書からわかった。著者は、徳川幕府が、「朝鮮通信使を「来朝」と称したように、国内向けには朝鮮を朝貢国扱いしていたことは事実である。しかし、幕府は、実際には朝鮮通信使を非常に丁重に扱っていたし、通信使随員の殺害事件などがおこると必要以上に相手に譲歩しようとした。ここには、相手を下に見ようとする態度を堅持したまま、実際には対等以下の立場にあることを何とも感じないきわめて日本的な姿勢がよく示されている」と述べている。それどころか、当時「朝鮮の文化的優位は誰しもが認めるところで」、「日本の文人たちの目的は、詩文を添削してもらい、また詩文をもらうことで」あり、「江戸の儒学者や僧侶たちの朝鮮の学問へのあこがれ」があったという。この朝鮮の優位は、朝鮮通信使の日本の高官観にもあらわれている。「老中たちについては、「みな一国の安危を一身に荷うといいながら、座して富貴を享け、浅薄にして愚かなこと、木偶の坊のようである」」とし、幕府大学頭「林鳳岡については「その文筆を観るに、拙朴にして様をなさない」と酷評している。朝鮮通信使のなかには、朝鮮の高官は科挙試験合格者であり一定の能力・教養があるのにたいして、「日本の官爵はすべて世襲」であると批判している、というよりあきれている。それだけに、実力のある新井白石雨森芳洲は、高く評価された。「朝鮮政府のなかに、日本を下に見、さらに対馬藩を家臣扱いする雰囲気もまたあ」り、「日本は武力を持ち、刺激するとやっかいだが、しょせん文化の低い蛮夷の国であるという認識」があった。


 日朝双方が、それぞれの思惑で、徳川の代替わりを基本に行われていた朝鮮通信使の「来朝」は、国境の対馬藩がとりもっていた。1631年、対馬藩の老家老柳川調興が、藩主の「宗氏が国書の偽造を行っていることを幕府に出訴した」。双方が、自国が優位であることを示すことによって、国内政治に利用していたのだから、双方をとりもつ対馬藩で「改竄」する必要があったのである。この「柳川一件」は4年後の1635年に判決が下り、宗氏が勝利し、柳川調興津軽藩お預けとなった。幕府は、日朝関係の安定を優先したのである。近代の外交文書は、取り交わした双方で同じものであることが基本であるため、訳文に細心の注意を払う。しかし、近世においては、双方が自国に満足のいく内容であればよく、相手が都合のいいように書き直したり、解釈しても自由だったのである。また、近代の外交権は国家の中央権力が独占したが、徳川幕府はその権限を対馬藩に委託した。その対馬藩の内情すら、幕府が充分に把握していなかったことは、つぎの記述からもわかる。「幕府は、対馬藩の貿易の実態をまったくといってよいほどつかんでいない。幕府役人が必要に応じて対馬藩に問いあわせているだけである」。


 修士論文の審査で、遣唐使について読んだ。そこには、日本からの使節をとりもつ中国の地方役人の姿があった。そして、中国人に詩文の題材として詠んでもらい、詩文をもらうことを喜ぶ日本人知識人の姿があった。近世の朝鮮通信使と同じく、外交は国家の中央と中央が直接行っていたわけではなく地方行政に委託していた。また、詩文を介して文化の優劣が明確になっていた。そこには、近代の西欧的外交とは違う東アジアの前近代の外交があり、文化の優劣が国の地位を決めていた。時代や地域を越えることによって、東アジアの前近代の秩序がみえてくる。


 さらに、世界史のなかで近世の外交をみると、ヨーロッパでは1648年のウェストファリア条約の後、国際秩序ができ、近代的な意味での外交が西欧諸国間で行われることになる。そして、アジアに進出したヨーロッパ列強はほかのヨーロッパ諸国を意識して、アジア諸王国との条約を結んでいった。しかし、1689年にヨーロッパのロシアとアジアの清との間で締結された対等の条約であるといわれるネルチンスク条約では、両者の解釈が違い、両国の国境が画定していなかったために、その後の国境紛争の原因となり、1858年にアイグン条約が締結されている。1939年のソ連・モンゴル対日本・満洲ノモンハン事件でも、国境紛争問題が発端だった。イギリス領マレーやビルマとシャム(現在のタイ)との国境画定については、2005年11月29日のこの書評ブログで扱った。どうも19世紀までのヨーロッパがアジアと結んだ条約は、ヨーロッパ側に都合のいい内容になっていたようだ。流動性の激しい東南アジアのような社会では、条約をそれほど重視せず守っていなかったし、文書そのものも残っているものが少ない。ということは、残っているヨーロッパ側に都合のいいように書かれた文書を基にして語られてきた従来の歴史は一面的なもので、見直さなければならない。


 話はガラリと変わるが、今年の大学入試センター試験の結果が公表された。地理歴史でもっとも受験者の多い日本史(B)の平均点が55点で、世界史(B)は66点だった。日本史の平均点が低い理由のひとつは、古代、中世、近世、近現代と時代ごとに出題していることだろう。そこには、時代ごとの自己完結的な閉鎖性があり、歴史のダイナミズムを感じさせる時代の超克もなければ、連続性もない。出題も自然と限られ、枝葉末節を問うことになってしまう。得点より心配なのは、日本史と世界史の問題を見て、学問的に同じ歴史学だと感じる高校生が少ないことだ。さらに、日本史も時代ごとに違う学問分野だと思われてもしかたがない出題形式になっている。平成11年の学習指導要領では、日本史と世界史の教育目標の違いがなくなってきている。一言で言えば、「東アジア世界のなかの日本」の歴史的理解を、日本史教育も世界史教育もともに目指している。とくに近現代史の出題では、世界史と日本史の共通問題があってもいい。本書でみた朝鮮通信使も、日本史(国史)のなかだけでなく、東アジア史のなかで、世界史のなかでみると、もっと奥深い歴史がみえてくる。学問としての歴史学のダイナミズムと世界史認識があって、なぜ歴史教育が現代の社会に必要なのかがわかってくる。それなのに、・・・。

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