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『貧困の民族誌-フィリピン・ダバオ市のサマの生活』青山和佳(東京大学出版会)

貧困の民族誌-フィリピン・ダバオ市のサマの生活

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 かつての人文・社会科学系の研究者は、「読むこと」を中心に研究した。それが、メディアの発達、交通の発達、研究費の増加などによって、研究手法に「観ること」が加わり、文献資料のすくない途上国を中心に臨地研究(フィールドワーク)が発達してきた。しかし、その臨地研究の手法が充分に確立しないうちに、つぎの「共に生きること」を研究の前提としなければならない時代に突入してしまった。


 かつて民族誌のための人類学的調査は、調査者の生活とは無縁の異文化を客観的に観察し、考察・分析すればよかった。それが、本書では、驚くべきことが、つぎのようにスラリと書かれている。出産後に出血が止まらず母親を亡くした赤ん坊が、乳のないままに「極端に痩せて明らかに脱水症状」に陥っていた。「調査助手やサマの近隣の人びとがあれこれと相談しているのを眺めているうちに-おそらく福祉に任せるのだろうと思いながら-、どういうわけか、わたしたちが預かって育てることに決まってしまった。断りようもなく、結局、半年間ほど-あらゆる友人と隣人に協力してもらいながら-赤ん坊が死んでしまわないように手を尽くすしかなかった」。


 このグローバル化の時代に、もはや自分の生活とまったく無縁な世界は存在しない。世界中のあらゆる人びとの日常生活が、なんらかのかたちで自分の日常生活と結びついている。著者の青山和佳は、調査対象としての社会ではなく、「共に生きること」を前提として調査しているからこそ、赤ん坊をひきとって育てるということも、戸惑いながらも実行し、書くこともできたのだろう。この書評ブログでは、わたしにはとてもできない研究手法で調査している若い人たちを、積極的にとりあげて、応援したいと思っている。それは、第一にわたし自身が学ぶことが多いからである。


 本書の目的は、「はじめに」の冒頭でつぎのように書かれている。「本書では、経済的な意味での「貧困」が人びとの暮らしぶり-「生きる営みの総体」、つまり文化(略)-に、どのように関わっているのかという問題について、いま一度、現場に身を置き、人びとの話をききながら論考した成果を伝えたい。研究の主題は、この作業を通じて、貧困の実体的理解に資する見方を探すことである」と。そして、「日々の暮らしのなかにおいて、他者との関わりのなかで絶えず生成、変化するエスニック・アイデンティティ(略)をひとつの鍵概念」とする「テーマにより、既存の開発経済学的な枠組みではとらえきれない、「貧困」を生きる人びとの「生活の質」を可能な限り包括的に把握することをめざす。同時に、その暮らしぶりをマイノリティと他者との関係-包囲社会を構成するさまざまなエスニック集団との非対称な経済的・政治的関係-の下に、より深く理解しようと試みることも本書の目的である」とし、さらに、著者は「貧困者を個別社会の価値観や文化を担った主体としてとらえることの必要性を訴え」、「開発経済学における貧困研究と人類学的な民族誌の手法とを橋渡ししよう」という大きな目的意識ももっている。


 著者は、「結果的には、価値前提を含む分析の枠組みが揺れ続けたことと、途中から一次資料の分析に没入してしまったことから、文献渉猟とそれに基づく論考が不徹底になってしまった。それぞれのディシプリンの可能性と限界を踏まえた上での学融合的な研究には到底至ることはかなわなかった」と反省するが、著者の何よりの強みは、調査対象者との人間関係のなかで収集した豊富な基礎データをもっていることだ。巻末の付録だけでも、本書が優れた研究書であることを証明している。ただし、このデータを研究にほんとうにいかせるのは、収集し整理してまとめた著者本人しかいないだろう。


 著者が本書冒頭であげた目的は、ひとまず達成されたと言っていいだろう。開発経済学のように、普遍化するだけの合理的な論旨がなく、課題が多く残されているが、それが本研究の特色でもある。こういう学融合的研究で、従来のディシプリンをもちだして、不備を指摘することは生産的な議論にならない。この研究成果をどう発展させていくかを、考えていくべきだ。そういうことを踏まえて本書の難点をあげるとすれば、地図がフィリピン全体とミンダナオ島の大まかなものしかないことだ。本書を読むと、調査対象としたダバオ市のサマについて、マクロ的にもミクロ的にも、その行動範囲と人間関係が、もうひとつの鍵概念になるように思える。マクロ的には、フィリピンという国民国家を越えた枠組みがあると同時に、国民国家の枠内でしか考察できない課題もある。ミクロ的には、教会や市場・商店など日常生活に深くかかわる施設との位置関係、5つのグループの住み分けなど、プライバシーを考慮するならデフォルメしたかたちでも、図式化するとわかりやすかっただろう。ほかの研究者が、議論に参加できる「設定」がほしかった。これも指摘するのは簡単だが、自分自身がからだ全体で理解したことを、他人に説明することは容易いことではない。そして、自分自身の調査対象社会での位置づけと、調査者が入ったことの影響についても。


 それにしても、「謝辞」をみると、調査のために多くの研究助成金を得ていることがわかる。受賞もあり、研究成果を刊行するための助成金も得ている。それだけ本研究が、期待され、評価され続けてきた、ということができるだろう。研究環境がよくなってきたことが、本書のような斬新な研究を後押ししたことも事実だ。しかし、著者と同じような調査が、だれにでもできるかというと、それは無理だろう。また、著者自身も、今後調査対象を拡大したいと述べているが、同じ手法でうまくいくとは限らないだろう。調査者自身も調査対象も、絶えず変化している。ミクロなレベルでは、その変化も激しく、急速なことがある。「共に生きること」を前提とした研究には、まだまだ多くの課題がある。その克服のためには、問題を整理し、本書のような優れた事例をたくさん公開することだ。著者と同じように多くの研究費を得ながら、研究手法や成果の公表のしかたが充分に確立していないために、まとまったかたちで発表できないままでいる若手研究者はすくなくない。それだけに、本書は光る。

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