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『歴史和解は可能か-東アジアでの対話を求めて』荒井信一(岩波書店)

歴史和解は可能か-東アジアでの対話を求めて

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 2月11日の建国記念日の朝、靖国神社に行った。街宣車の垂れ幕には、「小泉改革」の文字がある。数人から百人を超える団体まで、参拝者が後を絶たない。本殿では、建国記念祭が行われている。最近外国の報道で目立ち、韓国の盧武鉉ノムヒョン)大統領も訪問したいという靖国神社の付属施設、遊就館戦争博物館)の友の会入会案内には、つぎのような「お願い」が書かれていた。「昨今の学校教育では、日本の近代史が正しく子供たちに伝えられず、ともすれば、日本は戦争で悪いことをしたというような、自虐的な教育がなされております。遊就館には、英霊のご遺品、ご遺書をはじめ日本の近代史を見て、触れていただくためのたくさんの史資料があります。ご遺族、戦友をはじめ崇敬者のみなさまには、何卒本会の趣旨にご理解賜り、是非お子様お孫様をはじめ、若い方々にご入会をお勧めいただきたくお願い申し上げます」。そして、その遊就館の売店には、『首相の靖国神社参拝は当然です! そこが知りたい19のポイント』(日本会議編、明成社、2005年、48頁、286円+税)という小冊子が積まれていた。


 どの世論調査でも、首相の靖国参拝については賛否両論で、国を二分していると言ってもいいだろう。遊就館にある本やパンフレットを読んだ者は、賛成にまわるだろう。いっぽう、本書を読んだ者は、反対にまわる者が多いだろう。しかし、本書は、賛成か反対かを判断するために書かれたわけではない。著者は、「あとがき」で、「第二次世界大戦における日本の戦争による加害と被害の歴史について、戦争の傷跡の修復や記述、記憶のされ方の軌跡をたどり、歴史和解の可能性を考えてみた。一定の結論をだすことよりも歴史和解の可能性について前向きの議論をおこすことに本書の狙いがある」と述べている。そして、そのために「日本の対応を総括し、韓国・中国等での自国史及び日本批判への視点を歴史的に検証し、各国固有の歴史問題にも着目」し、「複雑な問題群を複眼的思考で考察」している。


 著者のように、「東アジアで噴出する歴史問題」について、なんとかしなければならないと考えている知識人はすくなくない。しかし、本書のように理路整然と問題を整理し、対話のために必要な知識を提供し、最後に和解のための提言をおこなっている人は、それほど多いわけではない。日本側の「歴史問題」では、日本人の戦争にたいする知識のなさが指摘され、対話にならないと言われる。学生を見ていると、生半可な知識で賛成、反対をいう者と、もう何を判断材料にしていいかわからず考えようともしない者に二分される。実際、日本人学生と中国人学生らとのあいだでディスカッションをしてもらったことがあるが、議論にならなかった。「被害者は記憶し、加害者は忘れる」と言えばそれまでだが、対話の前提がないという絶望を確認できた。今度は、遊就館で売られている小冊子と本書を読んでもらってから、ディスカッションするという手が使えそうだ。


 だが、気になるのは、ナチズムの創始者アドルフ・ヒトラーの大衆動員にも通じる「ワン・フレイズ・ポリティックス」を使った政治手法で、民意を問うやり方だ。「ゆとり教育」でものごとを簡略化して学び、インターネットで無差別に知識を拾っている若者に、本書を1冊丸ごと読んで、理解してもらうことはやさしいことではない。文学部でさえ、1年間に1冊も読まない学生は珍しくない。読んでも、部分的にしか読んでいない。著者の言う「事柄を単純化して説明責任を果たさないという以上の意味を現代政治のうえにもっている」、という以上に事態は深刻かもしれない。


 著者は、さらに「終章 歴史和解は可能か」でつぎのように述べている。「政治が暴力性を統御する技術であり、言葉の技術であることをここで強調するのは本章の主題である和解のためには政治の果たす役割がきわめておおきいからである。言葉のウエイトの低下は、統御の技術としての政治の劣化にほかならない。これまで各章で分析してきたように日本の外交的行き詰まりの根底には歴史問題がある。しかもさまざまな要因から歴史問題は多角化グローバル化し、大衆の感情との連動も深まっている。しかし靖国問題では首相は「個人の信条(心情)」を繰り返しのべるばかりである。補償問題についても外務省は一〇年一日のように「諸条約で解決済み」と答えている」。


 国民に向けた「ワン・フレイズ・ポリティックス」は、郵政民営化にイエスかノーかなら、まだ通用するが、「古典的な産業社会の形成期に西欧を中心に発生した国民国家の枠組みに明白な変化があらわれた」21世紀の国際社会では、国民向けの政策が国際的に大きな問題になることがある。国家の役割の比重が低下しているなか、国家間の取り決めだけでなく、国家と個人の関係も重視されるようになってきている。本書で、和解のために「個人補償」が提案されているのも、時代の変化に則ったものだ。2000年に、新宿住友ビル31階に平和祈念展示資料館が開館した。恩給欠格者、戦後強制抑留者、引揚者が補償を求めているが、海外では慰安婦や強制連行された者だけでなく、多くの個人がさまざまな理由で日本政府に補償を求めている。戦争当時、日本兵として戦地に行ったにもかかわらず、戦後日本国籍を失ったとして、軍人恩給・傷痍恩給・遺族年金などを受け取ることができない朝鮮人や台湾人。日本占領下で、日本のために働き未払いの給料を求めている人たち、貯蓄奨励策にしたがって預けたお金の引き出しを求めている人たち。日本軍が残した化学兵器のために、現在でも犠牲者が出ていることから、その除去を求めている人たち、などなど。いま、2国間関係の時代から、日本人と外国人の個人が連帯して戦争被害を訴えることもできる時代になってきている。


 和解への道は、まず、「いま」という時代を理解することから、はじめる必要がある。賛否両論のある意見も、どちらが外国でも通用するかを考えることも、重要な判断材料になる。そして、二者択一の近代的な考えから脱却し、反対論者の声に耳を傾けるところから、対話ははじまるだろう。本書が難しすぎると感じる人は、本書でもとりあげられている日中韓3国共通歴史教材委員会編著『日本・中国・韓国=共同編集 未来をひらく歴史-東アジア3国の近現代史』(高文研、2005年)を読むことからはじめるのもいいだろう。本書からさらに発展して、本格的に勉強したい人は、2005年11月から毎月刊行されている『岩波講座 アジア・太平洋戦争』(全8巻)を足がかりにすると、「いま」という時代のための「戦争の歴史」がみえてくる。


 最後に、また東南アジア研究者として、ひと言。本書では、中国や韓国との関係だけでなく、広くアジア系アメリカ人、ハワイやグアムの先住民にまで議論が及んでいながら、なぜ東南アジアは、「補遺」で申しわけ程度にしか語られないのか。その原因のひとつは、本書で指摘されているアジア歴史資料センターの「本来の目的として約束されたアジア諸国の所蔵史料の収集」が手つかずのままであることだ。東南アジアが議論されないのは、著者だけの責任ではない。東南アジアの研究者による研究の発展と、日本人研究者による東南アジアの原史料の利用がすすんでいないからだ。「大東亜共栄圏」構想に含まれた東南アジアの存在を抜きにして、和解への対話はない。早急に研究環境を整え、日本中心でもなく、東アジアや日米関係中心でもない、「アジア・太平洋」という日本がつくりだした戦争空間を理解したうえで、対話する必要があるだろう。

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