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『脱植民地化とナショナリズム-英領北ボルネオにおける民族形成』山本博之(東京大学出版会)

脱植民地化とナショナリズム-英領北ボルネオにおける民族形成

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 まずタイトルを見て、なぜグローバル化時代にナショナリズムをとりあげなければならないのか、なぜ英領北ボルネオというこれまで注目を浴びてこなかったし、これからも浴びそうにない地域の研究をしなければならないのか、と思った人は、近代という古い考え方に束縛されて、新しい時代が見えていない人です。近代は中央集権的な時代で、世界の中心であるかのように見えた「先進国」を中心に研究すればいい、国民国家が基本的枠組みで、その国民国家の中心の首都を研究すればいい、と考えられた。なぜなら、地方は首都をモデルし、「途上国」は「先進国」に追随して、「発展」していくのだと考えられたからである。過去の遺物となり、将来の展望が開けない研究は必要ない、と考えられても不思議ではない状況があった。しかし、もはや現在は近代ではない。


 本書の著者、山本博之は、近代の研究で見過ごされた問題から、現代さらにこれからの世界を見ようとしている。本書でとりあげる北ボルネオは、かつてマレー半島南部、サラワクとともにイギリス領であったことから、現在マレーシアという国民国家の一部になっているが、政治的にも文化的にも独自性を維持している。著者は、北ボルネオ(サバ)を事例に選んだことを、「はじめに」でつぎのように説明している。「サバは外来起源の思想や概念を、時に大きく変容させることで平和的に社会に取り込んできたのである。このように考えれば、サバは諸文明の共生という人類社会の課題への取り組みにおいて「最先端」の試みがなされているフロンティアであるとの見方も成り立つことになる」。だから、本書で「サバにおける外来の思想や概念の受容のされ方を検討する」という。すでに、国民国家を基本とする理論枠組みの限界が明らかになり、それに替わる新たな社会原理が模索されているなかで、著者はナショナリズムが対立や紛争というかたちで議論されてきたのにたいして、「「戦わないナショナリズム」を積極的に評価することを通じて民族アイデンティティが必要とされるしくみを解明」しようとしている。資料としては、表紙のデザインにもなっている、「1950年代末から60年代初めにかけてサバで発行されていた各言語の新聞」をおもに利用しているが、地域研究を専門に学んだ著者は、「文字資料に現れない人々の対応を浮かび上がらせることを試み」ている。


 本書で議論された北ボルネオ社会の3つの民族構成は、自明のものでもないし、民族間の明確な社会的亀裂があったわけでもない。にもかかわらず、北ボルネオには3つの民族が存在するという認識が生まれ、3つの民族政党が結成された。著者は、それを「脱植民地化による建国の過程」を通して検討した結果、つぎのような結論に達した。「サバには建国に際して多数決原理とともに資格としての民族原理がもたらされた。すなわち、ある社会において社会全体に関する意思決定の場に代表を派遣する資格を有すると認知された枠組として民族を捉える見方である。サバでは選挙制度と政党の導入に伴って5つの政党が組織され、これらが建国時に3つの政党に収斂した。そして、この3つの政党が代表する枠組としてカダサン人、ムスリム/マレー人、華人という3つの民族が存在するとの認識が定式化された」。しかし、この「3つの民族アイデンティティは建国の過程で得られた1つの均衡状態であり、固定化されたものとして捉えられない。3つの民族アイデンティティはいずれも明確な境界線を伴うものではなかった。サバでは各政党が厳密に排他的な党員資格を適用することができず、人々はしばしば政党間を移籍し、あるいは複数の政党に同時に登録し、そのためサバ連盟の構成政党どうしで支持獲得をめぐる争いが絶えなかった」。


 こんな「いいかげんな」地域の研究をしてなにになるのだ、とまだ感じている人がいるかもしれない。近代は、温帯の定着農耕民がリードした時代だった。いまグローバル化のなかで、社会の流動化が激しくなってきている。北ボルネオを含む熱帯の海域世界は流動性の激しい地域で、現代は流動的な海域世界の様相を呈してきているということができるだろう。だからこそ、著者は「結論」でつぎのように述べている。「「大国」に直接影響を与えない事例を一地方の特殊な事例にすぎないと見て切り捨てるのではなく、それぞれの地域社会で起こっていることを世界に結びつけて理解する努力を行い、その理解を1つ1つ積み上げていくことが必要だろう」。そして「「自信のない」ナショナリストの役割を積極的に評価することも必要となるだろう」と結んでいる。


 本書は、「第1章 学説史の整理」ではじまり、「第2章 歴史的・社会的背景」につづいて、第3~10章で、北ボルネオを事例に議論を展開し、その成果を踏まえて「結論」をまとめている。ひじょうにわかりやすい構成である。近代に研究が発展した国や地域の研究者にはとうてい理解できないだろうが、本書でもっとも執筆が困難であったと想像されるのは「第2章 歴史的・社会的背景」である。本書を読んで、理解しづらいところがあるとすれば、それもこの第2章が充分に理解できないからということになるだろう。研究蓄積があれば、「歴史的・社会的背景」は、既存の研究成果をまとめ、整理するだけで充分だ。しかし、本研究では、それがない。本来、歴史的背景だけで1冊、社会的背景だけでもう1冊、書いてからでないと、第3章以下が書けないというのが、この地域の研究の現状であろう。それは、北ボルネオだけに限らず、近代に「先進国」と言われた国を除けば、大なり小なり同じような問題に直面する。事例研究に付加価値を付ける「背景」の理解から研究を始めなければならないのだ。当然、このような研究には、時間と幅広い学識が必要となる。そのわりには、研究成果は評価されないのが現実である。いまグローバルな視点が必要だということは、さまざまな分野で主張されている。そのために必要な研究はどのようなものか。近代の延長線上にある研究より、近代を超えるための研究が必要であるにもかかわらず、「近代」にへばりついている人たちがいる。そして、「近代」にへばりついているほうが勉強しやすく、成果も出やすく、評価もされやすい。


 事例研究は、馬力と根気があればなんとかなる。理論研究は、勉強すれば多少はわかるようになる。しかし、「歴史的・社会的背景」は、ちょっとやそっとではわからない。著者は、そのことに気づいたことを「あとがき」でつぎのように書いている。「大学院に進んでサバで暮らすようになると、理念は抱きながらも現実の中でしたたかに生きている人々に出会った。その場しのぎに見える判断が予想外の解決の道筋を生み出す例を見るにつれて、一見理屈に合わないことでも、それが実際に人々によって選択され、それなりに機能していることの意味を考えるべきではないかと思うようになった。ある社会が複数の民族に分かれて国民としてのまとまりを欠くように見えるのであれば、人々がそのような社会を作って維持してきたことの意味を考えてみようと思うようになった」。問題の本質が見えてきたのだ。本書のような研究が、これからますます必要になる。そのためには、「歴史的・社会的背景」を充分に語るだけの事例研究が、まだまだ必要だ。この地域の研究だけでなく、この地域の研究に影響を与える、近代に見過ごされてきた地域や分野の研究が、まだまだ必要だ。

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