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『近代日本と戦死者祭祀』今井昭彦(東洋書林)

近代日本と戦死者祭祀

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 研究蓄積の少ない東南アジア史の本を読んで、連続してため息が出ただけに、本書は安心して読むことができた。「本をなぜ読むのか」と聞かれたら、いまのわたしは「書くために読む」と答えるだろう。その「書くために読む」というのも、自分の研究に直接役立つものもあれば、直接ではないが自分の研究に「付加価値」をつけるために必要な知識や思考力を与えてくれるものもある。後者の場合、研究蓄積がある分野のほうが、より洗練された研究成果を学べることが多い。本書も、そのような1冊だった。


 まず、構成がしっかりしている。「序章 研究史と方法・課題」で「一 戦死者祭祀研究史」と「二 研究の方法と課題」がおさえられ、「終章 結語」で「「まとめ」と今後の研究に向けて」が書かれており、回顧と展望がはっきりわかる。本書は、博士論文をもとに、加筆・修正されたものであるが、指導した機関(国立歴史民俗博物館)と教員の力量と姿勢がよくわかる。


 本書の目的は、「序章」の冒頭でつぎのように明確に述べられている。「近代日本における戦死者祭祀(慰霊)の問題に、ささやかながら研究の光をあてようとするものである。それは一般的に「靖国問題」という形で、象徴的に議論されている事柄であるが、しかしながら実際に近代日本において、戦死者はどのように祀られたのか、あるいはまたどのような扱いを受け、位置づけられたのか。こうした点を明らかにすることが、本稿の目的である」。このところ、「靖国神社」をめぐる問題が政治化して議論されているが、その議論のもととなる基礎的研究は、それほど多くない。著者は、この問題にたいしていくつかの共同研究を進めている国立歴史民俗博物館の共同研究員として考察を深め、これまでの自分自身の研究をより相対化し、本書に活かしている。


 本書は、「第一部 内戦における反政府軍戦死者の祭祀」と「第二部 対外戦争における戦死者の祭祀」の2部からなる。第一部では、近代日本における戊辰の内乱から、とくに反政府軍の戦死者の祭祀について考察している。その結果、会津戊辰戦役にみられるように、反政府軍の戦死者は「路傍に打ち捨てられた犬や猫の死体と同様な扱いを受け」、政府軍から「その埋葬作業が許可されるまで、何ヶ月もの歳月が必要であった」ことを明らかにした。この事実は、「少なくとも日本の中世においては、御霊信仰から、あるいは仏教の怨親平等の思想から、敵の戦死者も丁寧に祀られた」こととは違い、「明治新政府が新たに作り上げたもので」あった。それはなぜなのか、新たな課題が浮かびあがってきた。いっぽう、政府軍の戦死者は国家祭祀の対象となり、対外戦争による戦死者数の拡大とともに、その祭祀の重点は対外戦争の戦死者に移っていった。そして、著者は、「近代以降のこの政策が、現在の「靖国問題」の本質に関わる問題となっている」、と指摘している。それは、靖国神社の祭祀形態が、味方だけを祀り敵を排除したことである。「忠勇なわが勇士ばかりではなく支那兵も死ねば国家に尽した人だ、皆葬つてやるべきである」という考えは、排除されたのである。


 第二部では、籠谷次郎の研究成果である「忠魂碑は、単に戦死者慰霊のためだけの碑ではなく、国家統制の下で、国民の士気高揚のために建立されたものであり、忠魂碑・忠霊塔(市町村)→護国神社(県)→靖国神社(国)という、重層的関係が成立していること」を踏襲して、あらたに実地調査をしている。その結果、「こうした招魂者や忠魂碑を媒介としての、戦死者祭祀においては、単に戦死者の霊魂を「慰霊」するだけではなく、それにさらに戦死者の「顕彰」という意味が、付与されていくことが重要であった。顕彰とは、それを誉め上げなければすまない、強固な社会集団の意志を背景にした行為である。近代国家の形成過程において、顕彰を支える集団の核は一族や郷党、そしてとりわけ国家という枠組みに向かって収斂した」ことを明らかにしている。つまり、日本の慰霊活動は、顕彰と切っても切り離せないということがわかる。そして、その「顕彰」を通じて、国家と地域社会が結びついていったことを、続けてつぎのように「結語」で述べている。「戦死者は顕彰されることで、その生きかたや行為が正当化され、そして戦争が、あるいはまた戦うことの意義が、地域社会に受け入れられていったのである。それは学校教育、とりわけ小学校教育を通じて普及していくが、忠魂碑などの慰霊顕彰施設が、学校敷地内に建立され、またこうした施設の建立が、戦役ではなく、国家行事との関係でなされたことなどは、その好例である」。このことから、戦争責任が一部の軍国主義者だけにあるのではなく、国民が揃って軍国主義の方向に向かっていたことがわかる。


 本書から明らかになったことは、昨今の「歴史認識問題」を考えるための多くの示唆を与えてくれる。第一部での敵の戦死者にたいする政府軍の扱いは、対外戦争で敵の恨みを増幅させたことを想像させる。敵の戦死者を放置したのであれば、戦場とした外国の住民の支持を得ることを難しくしたことだろう。その外国の戦場に、いわゆる南方戦線を中心に、現在何百ではきかないだろう日本人による慰霊碑が建立されている。その慰霊が顕彰と結びついているなら、戦場とされ日本兵に殺された肉親・友人がいる国・地域の人びとの共感を得ることはできないだろう。そして、今日、国内でも海外でも慰霊碑は建てつづけられており、政治家の名前が大書されたものもある。高齢化した戦友や遺族にかわって、新旧宗教団体が中心になって建立したものもある。慰霊活動自体が複雑で、いろいろな考えからおこなわれており、本書で書くことのできなかったこともあるかもしれない。それだけに、はっきりわかることは、きちんとおさえておくことが重要になってくる。


 いっぽう、野晒しにされた敵兵の遺体を見た日本兵は、負ければ自分たちも野晒しにされることを覚悟しただろう。それだけに、御霊が英霊(神さま)となって靖国神社に祀られることで慰められることになっただろう。『ビルマの竪琴』の主人公の水島が、野晒しにされた日本兵の遺体をそのままにして帰国できなかった理由が、本書を読んで一層よくわかった。戦友や遺族が、海外での慰霊活動にこだわるのも、わかるような気になった。この日本人の慰霊にたいする気持ちと、日本が戦場とした地域の人びとの気持ちの両方を理解したうえで、どう考えるのか。本書は、「靖国問題」を議論する前に、ぜひ読んで欲しい1書である。

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