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『稲作渡来民-「日本人」成立の謎に迫る』池橋宏(講談社選書メチエ)

稲作渡来民

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 日本人は、稲作や米食論議が大好きである。しかも、古来から米を主食としてきたと信じている日本人の常識で考えたがる。わたしが、学生によく訊く質問に、「水稲作と陸稲作では、どちらが収穫量が多いですか?」とか「ジャポニカ(短粒米が多い)とインディカ(長粒米)では、どちらがおいしいですか?」がある。最初の質問にたいしては、「水稲作に決まっているのに、なぜこんな質問をするのだろう」と怪訝な顔をする者が多い。「水稲作に決まっている」と考えるのは、水稲作のほうが進んだ農法だと思っているからだ。たしかに、焼畑などでおこなう陸稲作のほうが手間がかからず、原始的な農法だ。その「手間がかからず」ということを収穫量とあわせて考える者は少ない。「水稲作に決まっている」と考えるのは、単位面積当たりの収穫量を前提にしているからだ。しかし、単位労働当たりの収穫量は、焼畑陸稲作のほうが多い。つまり、人口密度が高く耕作地が少ないところでは水稲耕作が適しているが、人口密度が低く広大な土地のあるところでは楽して収穫できる焼畑陸稲作のほうが適している。


 ふたつめの質問にたいして、日本人が長年品種改良に努力してきたことを知っている者は、当然ジャポニカのほうがおいしいに決まっている、と思っている。しかし、世界で食べられている米の8割はインディカだ。しかも、東南アジアでは最初ジャポニカが栽培されたが、インディカにとってかわられたと考えられている。熱帯では、ジャポニカは腐りやすく、ねばねばしているのが嫌われる。因みに、わたしがいままで食べた米で、もっともおいしいと感じたのは、ジャポニカより大粒のジャバニカの陸稲赤米だ。


 そして、米は国造りの基礎となったというのも、日本的な議論だ。水稲耕作によって余剰食糧ができて古代日本国家が成立し、米が日本人の主食となったと考えられているようだ。しかし、日本人が米を主食とするようになったのは、国家が食に介入し、大量に輸入した戦前・戦中のことである。自給できるようになったのは、戦後のことだ。国家の形成にかんして人口密度との関係を考える人がいるが、モンゴル帝国のように人口密度が低く、稲作を基本としない国家は、アジアにいくらでもある。騎馬軍団のような機動性のある軍事力が、ソグド商人のような広域商業圏をもつ集団と結びつくと、人口密度が低く余剰食糧を生産できなくても、国家を形成できるだけのヒトもモノも集めることができる。日本人の稲作論議好きは、わからないことがあまりにも多く、皇国史観と結びつき、いろいろな想像をめぐらすことができてロマンへとつながるからだろう。本書は、その稲作論議に「イネ学・考古学・言語学から総合的にアプローチ」をもって参戦し、「「日本人」はどこから来たか」を探ろうとしている。


 著者、池橋宏も、上記のようなことを理解していて、つぎのように述べている。「栽培イネが一年生であることも、陸稲水稲に先立つということも、畑に水が滞留して水田ができるという見方も、イネをよく研究してみると可能性の低いことである。これまでの思い込みから出たモデルからは、畑作の穀物農業と水田農耕の大きな差異が理解されなかった」。また、古代国家の成立についても、「朝鮮の古代国家の成立についての論議のなかでは、水田稲作の渡来と定着の意義があまり強調されていない」ことを認めたうえで、「騎馬民の武装力や鉄器の普及も大きな要因であったが、水田農耕の発達を軽視することはできない」という。


 著者は、「長江下流山東半島→朝鮮南西部→北九州」というルートで日本に稲作が渡来し、「舟を操り稲作とともに漁撈を生業とする「越」系の人びとにその鍵がある」と考えている。それを立証するために、専門の「イネ学に加え、考古学・言語学の最新の成果を渉猟」している。ここで欠けているのは、「舟を操り稲作とともに漁撈を生業とする」人びとのことだろう。著者の疑問のひとつである「なぜ体型は変わったが言語は変わらなかったか」についても、海洋民の性格を考えると解決するかもしれない。定着農耕民とは違い、流動性の激しい海洋民は、移動先の土地で生まれた子どもがその土地に定着すると、その土地の言語を母語とするようになる傾向がある。著者のいうように、稲作渡来民が海洋民で、一時に集団で移住したのでなければ、言語は変わらない。このことについては、次回この書評ブログで取りあげる「海洋性」についての本から、より明解な答えを得ることができるだろう。


 「「日本人」成立」などというテーマは、わからないことだらけである。それぞれの学問分野で矛盾した仮説が繰り返し提出されるのも、断片的な考察しかできないからである。本書は、複数の分野の最新の研究成果をつなぎ合わせて「稲作渡来民」という仮説を立てているが、もちろんすべての分野の成果を考察の対象としたわけではない。これからも断片的な「新発見」「新解釈」によって、仮説は変わっていくだろう。個々の分野の研究の進展と本書のような「総合的アプローチ」の繰り返しによって、一部の謎は解けるだろうが、その後には新たな謎が生まれるだろう。だから、稲作や「日本人」成立の論議に終わりはない。このような論議で忘れてはならないのは、学問的な基本を充分踏まえて仮説を立てることだ。そのためには、「日本人の常識」を棄てることである。国際的な論議も必要だ。


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