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『隅田川のエジソン』坂口恭平(青山出版社)

隅田川のエジソン

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「都心で狩猟採集生活をする」

私がニューヨークに暮らしていたころ、街中のいたるところにホームレス・ピープルがいた。80年代初頭のことだ。彼らの多くは物乞いをして生活していたが、物を乞う卑屈さが少しもない。朝、コーヒーを買って釣り銭をもらおうとすると、さっと横から手が出る。そのタイミングのよさに、思わずコインを彼の掌に落としてしまう。いつもそうするとは限らず、機嫌の悪いときには「こっちが欲しいくらいよ!」と言い返してしまったりするが、別に恨むふうでなく、have a nice day! と言って去っていく。

それまであまり意識しなかったホームレスのありようを、帰国後、気を留めるようになった。以前は耳にしなかった「ホームレス」という言葉をよく聞くようになったのも、このころだったように思う。原稿に「浮浪者」と書いたら「ホームレス」と赤を入れられ、この名が日本でも使われているのを知った。

ところがよく見ると、日本の路上生活者は「ホームレス」とは名ばかりで、ちゃんと段ボール製の家を作って住んでいるのである。玄関があって、入口にはちゃんと靴がそろえて脱がれていて、中から人の笑い声が聞こえてくる。これにはびっくりした。方丈を作って車座になって団らんするという住文化の原点が、路上の環境においても再現されている。こういう光景はニューヨークでは見たことがなかった。彼らは段ボールを重ねて寝るだけで家は作らないし、ましては団らんなどはしなかった。

隅田川エジソン』は隅田川べりに暮らす路上生活者の物語である。実在の人物をモデルにしたと帯にあるが、たしかにここに描かれている生活の細部は、想像では書けないものばかりだ。読みながらニューヨークの記憶がよみがえってきたのも、彼らの肉声に触れているような気がしたからだった。路上で生きることの具体性が、実に立体的に浮かび上がってくる。

硯木正一という元土方の男が語り手である。地方で土建の仕事をしていたが、会社が倒産して上京、浅草寺横の児童公園で夜を明かした折に、持ち物一切を盗られて、無一文になってしまう。とりあえず、という気持ちで川べりで暮らすうちにこれが気に入り、パートナーの女性も現れ、ふたりで暮らすようになるのである。

土建の仕事をしていたときから、ひとりで最初から終わりまでこなすのが好きという、工夫上手の独立独歩派だった。持ち前の技術を活かして、簡単に作れ、かつ移転を求められたらすぐに解体できる段ボールハウスのエキスパートとなり、自邸のみならず、まわりの人の家も建てて上げる。

家はただ雨露をしのぐだけの空間ではない。なんと電気が使えるのである。廃棄処分にまわされる、まだ使用可能なバッテリーを、ガソリンスタンドでもらい受けてくるのだ。電灯が付き、テレビやラジカセがある電化生活。カラオケセットを拾ってきて、カラオケ付き宴会を開いたりする。水は公衆トイレで調達。拾ったカセットコンロで料理もする。炊き立てのご飯にみそ汁、ときには摘んできたタラの芽を天ぷらにするなど、なかなか気の利いた生活ぶりだ。

収入もちゃんとある。拾った電化製品を修理してドロボウ市で売ったり、テレホンカードを換金したりして得るのだ。家賃が0円だから、稼いだ何万かはすべて食材や酒代にまわせる。こんなふうに狩猟採集生活が可能なのは、多くのものが使える状態で廃棄される東京ならではだろう。近所をひとまわりすれば必ず収穫があるのだ。

こうやって暮らす彼に、住人たちがやさしく対応するのも意外な点である。携帯電話の普及でテレホンカードが減り、それを拾うだけでは収入がおいつかなくなって、彼はアルミ缶の収集に乗り換える。それもただ拾うだけでは効率が悪いので、どこの家がたくさん捨てるかを調査して、その家と交渉する。すると、彼の生活ぶりにほだされて、缶を取り置いてくれる家が現れるのである。

「おれはいつも思う。東京は一番人間があったかい場所なんじゃねえか? だけど普段の日常は、なにか仮面が覆っていて、誰にもわからない。おれみたいに、もう終わりだよー、と一度行くところまで行ってしまった人間に対しては、許容範囲広いわけよ。その真ん中がないっていうのかね。もう飛び込んじゃえばいいんだけれど、大体の人はできないからさ。やっちゃった人に対しては、尊敬の念があるのかもしれない。出家した人みたいな扱いを受ける時があるから面白いよ」

ふつうの人が出来ないことをやっている姿に、夢を託すような気持ちがあるのではないか。「出家した人」という言葉に表れるように、異界に生きる人への敬慕の念もあるのだろう。ともかく、世間が思うほどには人の心が冷え固まっていないのに胸をつかれる。素直に表しにくくなっているだけで、人恋しさは変わらないのだ。

無線でインターネットがつなげる場所に家を建てて世界と交信している男(屋根に太陽電池もつけている)、廃品アートを何百と作っている男、段ボールハウスで寺子屋を始める元中学教師など、個性派そろいである。読み進むうちに、私たちが生活する同じ地表に、もう一つ別のパラレルワールドが立ち現れつような感じを抱く。そこでは人が体を使い、知恵を活かし、工夫しながら生きている。都市のロビンソン・クルーソーである。

この著者には、段ボールハウスを建築と住空間の見地からドキュメントした『0円ハウス』という著書があるが、そのときの取材が本書の核になっているのだろう。段ボールハウスとそこに暮らす人々を、社会問題としてではなく、もうひとつの生活物語として描いている点、それによって都市環境が逆照射されているところが実に新鮮である。著者は大学で建築を専攻した。その視点が都市空間や生活環境や建物の見方に生きている。

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