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『歴史は生きている 東アジアの近現代がわかる10のテーマ』朝日新聞取材班(朝日新聞出版)

歴史は生きている 東アジアの近現代がわかる10のテーマ

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 日本人の多くは、9月18日や7月7日が中国人にとってどういう意味をもつのか、まったく意識していない。これらは、それぞれ1931年の満洲事変と37年の廬溝橋事件が起こった日で、中国人にとって忘れてはならない国辱的な記念日である。5月4日も、第一次世界大戦を機に日本が袁世凱政府に認めさせた山東のドイツ利権の譲渡や南満洲への権益拡大など、21ヵ条の要求の撤廃を求めた19年の抗議運動に因んだ、中国人にとっては重要な記念日である。しかし、この五・四運動が、同年3月1日に朝鮮各地ではじまった抗日・独立運動とどう関連していたのか、中国人の多くはまったく意識していない。


 本書を読むと、歴史認識の問題がそれぞれの国・地域の「国史」教育にあることがはっきりわかる。その「『異なり』を理解する」ことの重要性は、「あとがき」でつぎのように語られている。「「教科書を比べる」でお分かりの通り、日本、中国、韓国、台湾の中学校で用いられている歴史教科書の内容は、それぞれが重視する視点によって随分と異なっています。私たちは、その違いを批判するのではなく、なぜ違っているのかを各教科書の執筆者らに取材し、掘り下げることにしました」。


 では、東アジア共通の歴史教科書をつくるために必要なものはなにか。「2007年6月から08年3月まで、毎月1章ごと掲載されたシリーズ「歴史は生きている-東アジアの150年」」のしめくくりにあたって、東京で08年4月19日に開催された国際シンポジウム「歴史和解のために」で、「基調報告」をおこなった山室信一はつぎのように語っている。「歴史認識の共有を課題として研究や教育教材の国際交流を進めていく際に、具体的にはどのような領域が今後は設定されるべきか。「連関史としての東アジア世界史」を各地域から出し合ってみよう、というのが私の第一の提言です。それは将来的には東アジアの歴史史料を共有するためのセンターを設置し、そのうえに東アジア共同歴史研究所の創設をめざす、予備作業ともなるものです」。


 さらに、山室はつぎのように指摘している。「アヘン戦争以来、東アジアは思想の連鎖と文化の連関の中で推移してきており、一国史としてだけでは描けません。にもかかわらず、その関連性を視野に入れた歴史像を、現在でもなお国民全体として共有できていないことに一番の問題の根があるはずです」。


 本書で語られていることを真摯に受け止め、「東アジアの「つながり」と「異なり」を理解」すれば、問題は簡単に解決するように思われる。しかし、その試みは、すでに20年近く前に3冊の本の出版によっておこなわれていることを知ると、問題が指摘されても解決へと結びつかない根の深い問題があることに気づく。その3冊とは、東京書籍から1990-92年に出版された『近現代史のなかの日本と朝鮮』『近現代史のなかの日本と中国』『近現代史のなかの日本と東南アジア』である。本書で「東アジア近現代史の10大出来事は?」に答えた20人のうちのひとり小倉和夫国際交流基金理事長が指摘する「問題は、日本の若い世代が、歴史認識を論ずる以前に、歴史そのものに関心がなく知識も乏しいことだ。無知は偏見につながり、互いに誤解を生む」は、「若い世代」の問題だけでなく、なぜ「若い世代」がそうなったのかを考える必要があるだろう。そして、いつのまに「東南アジア」が抜け落ちたのか。


 若い世代の歴史離れとアジア離れは、ひどい。しかし、それは若い世代の両親、祖父母の世代がアジアとの歴史的関係にまともに向き合わなかった結果でもある。関心と知識がないままに、アジアを旅行し、仕事でアジアに行く。3月1日も5月4日も、7月7日も9月18日も知らないで、アジアの人びとと交流することが、どういう意味をもつのか、若い世代の日本人が思い知らされる日がいつか来るのか、知らないままに過ぎ去ってしまうのか、わたしにはわからない。しかし、いずれにせよ、歴史的知識を欠いたままの異文化交流は、日本人の国際的協調力を弱くし、好ましい結果にはならないだろう。

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