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『慰霊・追悼・顕彰の近代』矢野敬一(吉川弘文館)

慰霊・追悼・顕彰の近代

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 冒頭で、著者の矢野敬一は、「本書の目的は、近代において慰霊、追悼、そして顕彰といった事象がどのような政治的力学をはらみ、またそうした力学を通して家あるいは郷土というローカルな次元での共同性がいかに構成、もしくは再構成されてナショナルな次元へと接合されていったのか、もしくはされていなかったのかということを論じることにある」と述べている。


 本書は「靖国問題」を念頭においていることは確かだが、政治化した問題に振りまわされることなく、民俗学という基礎研究をもとに、問題の根本を洗い出そうとしている。したがって、「靖国問題」に直接かかわるのは、最初の2章だけで、残りの4章は古代にまでさかのぼる祖先祭祀や郷土史像の編成について考察している。本書は、比較的長い「序」(41頁)で著者の目的意識を明確にし、各章で考察したことをもとに「家と祖先をめぐる知の成立と展開」を述べて「結」としている。各章には、それぞれ「はじめに」と「おわりに」があり、わかりやすい。


 「序」では、明治以降の近代国民国家日本の戦死者が、どのように位置づけられたかが検討され、つぎのようにまとめている。「明治末から登場した国民道徳論は、国家への貢献を通して国民誰しもが国民的祖先となりうることを説いていった。明治期の英雄への関心の高まりを、新たな形でナショナルな次元へと回収しようとする試みとして、国民道徳論は位置付けられるかもしれない。そしてその先には総力戦体制という形で国民を戦争に巻き込み、無数の「英雄」が生じてしまう事態が待ち構えていたのである」。


 「第一章 戦死者と新聞報道」では、公葬という形で戦死が位置づけられ、新聞報道を通して反論も疑問もできなくした様子が描かれている。「新聞は華々しい戦況だけではなく、郷土出身将兵が戦死したような場合はその情報を、さらに遺骨が帰還してからはその慰霊の状況を、大きく取り上げていく」。そして「公的な性格を帯びた戦死者の葬式では、遺族宅と公葬会場までと二度にわたって遺骨を中心とした行列を組むことが要請されていた」。「新聞記事は行列の盛大さを報道することによって、戦死者への処遇はどのようなものとすべきなのかについての規範を写真ともども読者に提示していった」。


 「第二章 郷土という次元での戦死者」では、「最初の節で従軍先である外地と郷土との双方がどのように切り結ばれていたのかという点を、新聞や雑誌が果たした役割から論じる。次いで戦死者への公葬の執行について、ナショナルな次元との関係から述べる。さらに戦死者の扱いが学校教育でどのようになされていたのか、あるいは戦死者への戒名付与の状況がいかなるものだったのかという点に言及し、郷土というローカルな次元での戦死の位置付けについて視点を変えて踏み込みたい」という。「戦死者を慰霊しあるいは追悼・顕彰する行為の内実には、靖国神社への合祀という局面にとどまらない多様な過程が含まれていた」。


 そして、著者は問題点を、つぎのようにまとめている。「戦死者の慰霊は所属部隊での慰霊式典、出身市町村での公葬という流れを経て靖国神社への合祀に至るまで、一貫した流れを持つように見える。だが繰り返していえば、そこには体系だった慰霊・追悼・顕彰のシステムが存在していたわけではない。靖国神社への合祀に収斂するナショナルな次元とは異なった位相にある慰霊・追悼・顕彰のシステムを、郷土というローカルな次元では試行錯誤しつつ模索せざるをえなかったのが実情である」。


 近代国民国家の成立とともに、徴兵制が敷かれ、国民誰もが国のために戦死する可能性が生じた。しかし、その死は、家族や郷土にとって身近なもので、それを近代的な論理でナショナルなものに結びつけ、靖国神社への合祀で完結させた。しかし、そのシステムは、大量死と敗戦で崩壊した。そして、近代に源がある「靖国問題」は近代的な論理で解決できずに、現代に持ち越された。前近代と近代とを結びつけた靖国神社への合祀の問題は、現代の「生と死とをめぐる問い」となって、われわれに降りかかっている。

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