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『私という運命について』白石一文(角川文庫)

私という運命について

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「運命とは何者なのか」

 フランス人はラテン系人種の特色を見事に見せる時がある。明確に言えば、「いい加減」な時があるのだ。これを、許せるか許せないかは、人による。ドイツ的気質を好む人にとっては、たまらなく嫌だろうし、ラテン的気質が好きな人にとっては、長所にもなりうる。一度ダメと言われたものが、担当が変わると通ってしまったりする。何事にも大雑把になり易い北海道人である私にとっては、これは「良い」加減と感じられる。

 このような世界に慣れてしまった私には、白石一文の『私という運命について』は、非常にドイツ的な作品であり、几帳面で真面目で、脈絡が合い過ぎている作品だと感じられる。少々息苦しいのだが、ストーリー展開が上手く、読み易い。現実の出来事を忠実に織り込んでいるのも、臨場感を与えている。

 私の仕事である国際バカロレア(International Baccalaureate)において、かつて「文学は時代を反映するか」というテーマが出題されたことがある。この作品は、日本人にとって忘れがたいトピックスが次々と現れるので、まさに時代を反映していると言えそうだ。主人公である冬木亜紀も、男女雇用機会均等法を背景に、大手情報機器メーカーに勤める、女性総合職の一期生である。

 亜紀の29歳から40歳までの人生を描いているのだが、読了してみると、そこに現出するのは、時代を超えた人間の営みであり、男女のそして家族の永遠の課題でもある。現実味を出す為に織り込まれた種々の事実、事件は、自己の人生に真摯に立ち向かおうとする亜紀の姿により、意味を持たなくなる。臨場感を出すための要素とのコントラストにより、却って亜紀の姿は時の呪縛から放たれていく。

 亜紀の側からプロポーズを断った佐藤康と、10年の歳月を経て再会し結ばれるのだが、その幸せは長くは続かない。最後に康に訪れる不幸は少々唐突であり、亜紀の夢に現れる白馬のイメージは祭りの単純な逆算であり、像が不明瞭な脇役もいる。それでも、必死で生きていく亜紀の姿には感動を覚える。「人間というのは、一人で生きる時間が長くなればなるほど、きっと他人に預けられない、委ねられない、任すことのできない強固な自分自身というものを形作ってしまう」という、亜紀の言葉に共感を覚える人も多いだろう。

 ところで、良い作品の条件とは何だろうか。私はその一つに、最後の一行を読んだ後の、世界の広がりがあげられると思う。良質な作品は、私たちを無限の想像世界へと誘う。良い作品は収斂せず、無窮の彼方へと拡散する。この作品は、無限の拡散を持っているとは言えないだろうが、少なくとも亜紀と、康の母である佐智子、そして亜紀の息子の康一郎の、これからの人生を想像する楽しみがある。一読に値する秀作である。


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