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『ヒューマニティーズ 哲学』中島隆博(岩波書店)

ヒューマニティーズ 哲学

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 帯に、「哲学が問うてきた本質的な問題とは何か。呼びかけへの応答から、概念の創造へ。救済のための、平和のための、未来の哲学へ。他者との共生にむけた哲学の実践。」とある。


 著者、中島隆博中国哲学が専門である。そして、「東西の哲学伝統における「共生哲学」構築の試み」などのテーマのもとに、世界を飛びまわり、議論しながら、本書を書いた。「共生哲学」は簡単にみえながら、そう簡単ではないことを思い知らされながら、「哲学とは何か」という常軌を逸した問いにも答えようとした。


 著者は、まず「一、哲学はどのように生まれたのか」で、「(一)哲学の始まり」と「(二)中国哲学の始まり」にわけて、ギリシャ哲学と中国哲学の誕生から、今日に及ぶ影響を考える。つぎに、「二、哲学と翻訳そして救済-哲学を学ぶ意味とは何か」では翻訳を通して哲学とは何かを問い、「三、哲学と政治-哲学は社会の役に立つのか」では「西洋によるロゴスの支配」と近代東アジアとがどう結びついていったのかを、西田幾多郎や台湾で活躍した新儒家とよばれる哲学者を通して考える。そして、「四、哲学の未来-哲学は今後何を問うべきなのか」では、つぎの見出しを列挙すれば、著者が語ろうとしたことが想像できるだろう。「奪われた声/被植民者の沈黙に言葉を返す/「新しい戦争」の時代なのか/正義の戦争の原光景/放にして祀らず/歓待と暴力/入植する者と国家を逃れる者/終末論とメシア的平和/近さと国家/他者と遭遇する戦争」。


 著者が、本書で語ろうとしたことは、「はじめに」の最後のパラグラフにつきる。「では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的であることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。どちらも容易に口にすることのできない言葉であることを承知の上で、あえて猛り狂ったスタイルでそう述べてみたいのである」。


 そして、「四」の最後を、つぎのように締めくくっている。「来るべき哲学は、自らの暴力性に震撼しながらも、行為遂行的に、このことを他者とともに考え、他者とともに発明していく。そのとき、戦争で遭遇した他者の声を聞かずにすませてきた耳の体制は一新され、わたしたちは他者の声を聞くのである。他者との共生は、哲学の目標であると同時に、哲学のあり方、哲学の実践そのものである」。


 正直言って、具体的に議論されていることは、よくわからなかった。しかし、どういう姿勢で、哲学に取り組む必要が、今日そして未来にあるのかは、すこしわかったような気がした。


 哲学を学ぶことは、どうもだれにでもできることではなさそうだ。だから、純粋に哲学をテーマとした博物館はなかった。本書にも登場した西田幾多郎の故郷にある石川県西田幾多郎記念哲学館が、世界で初めてだという。この哲学館では3つの展示室「哲学へのいざない」「西田幾多郎の世界」「西田幾多郎の書」で、それぞれ工夫を凝らして解説しているが、それでもけっしてわかりやすいわけではない。さらに、わかりにくくしているのは、この博物館を設計した安藤忠雄の「工夫」である。建物のテーマは「考えること」で、丘の上に立つ建物の配置から建物内部の迷路や意味不明の空間まで、「おや?」と思ってくれればいいのだろうか。


 この哲学館は、それほど行きやすいところにあるわけではない。JR金沢駅から七尾線に乗って25分ほどで、宇野気駅に到着する。駅前には、西田幾多郎の像があり、歩いて20分ほどの哲学館の途中には、移築した西田幾多郎の書斎「骨清窟」(寸心園)があり、すぐそばのかほく市立宇ノ気小学校の校庭には頌徳記念碑がある。校舎の壁には意味不明のものが書かれてあるが、「無」である。「西田先生を讃えるうた」まである。ここには、西田が教鞭をとった京都大学近くの「思索の小径」とは違う、もうひとつの「哲学の道」がある。


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