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『比島から巣鴨へ-日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』武藤章(中公文庫)

比島から巣鴨へ-日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命

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 本書を読むと、A級戦犯として死刑に処された軍人にも戦争責任はないと錯覚してしまう。「解説」では、東京裁判で死刑判決を受けた理由をつぎのように説明している。「検察側が武藤について重視したのは一九三七年以降の役職、すなわち中国戦線の参謀副長、陸軍省の軍務局長、フィリピン戦線の参謀長であった。検察側の報告書には、武藤は「最も狂信的」な軍人であり、東条の政策を支持、実行した「主要な軍国主義者の一人」、「中国問題の最大の責任者」でもあり、軍務局長として「軍の政治活動、宣伝、検閲」を担い、フィリピンの残虐行為にも関与した、とある」。


 いっぽう、多くの非武装の市民の犠牲者を出し、物心両面にわたって甚大な被害を被った国や地域の人びとからみれば、「フィリピンは例えば武藤を殺すと。それ以外はどうでもいいと。支那は板垣と土肥原、松井……」といったように、日本人のだれかが責任をとらなければおさまらなかった。武藤本人は、敗戦後3年がたった1948年8月16日の日記に、「米国の挑発によって勝算なき無謀な戦をやった」と記している。


 ここで問題としなければならないのは、だれにも責任がないのに、なぜ「勝算なき無謀な戦」に突入したのかということである。もし、それをきちんと清算しておかなければ、ふたたびだれの責任でもないのに、戦争がはじまってしまう。本書前半の手記「経歴の素描」のなかに2箇所、なぜ「軍国主義」が加速したのかを考えさせる記述があった。


 ひとつは、「軍国主義」化前の世相である。「大正九年(一九二〇)十二月卒業まで三年間、私は陸軍大学に学んだわけである。当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本軍人に指向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚しきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ軍人と結婚しよう又はさせようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活はどん底であった」。その後の軍国主義化、そして戦後「日本軍閥を攻撃し、その罪を責める」といった無責任な世相があった。近代国民国家にとっての軍隊の役割について国民が充分に考えなかったことが、世相の流れが変わると、どちらに流れようと加速化することになった。


 いまひとつは、軍国主義化を止めるどころか、積極的に加担した日本人についての記述である。「戦線が進むにつれて日本人がついて来る。これらの日本人は、内地でも支那でも港々や国境の停車場やで取締っている筈に拘らずやって来る。この種の日本人は男も女も非常に勇敢である。軍隊の行くところは弾の飛ぶ戦場にまで突進する。軍隊でも一応は取締るが矢張りそこは日本人同志である。事情を聞けば寛大な処置を採ることになる。それに何かと便宜もあるのでつい大目に見てやる。瞬くまにおでん屋が出来る。カッフエーが出来る。慰安所が出来ると云う次第である。それでもこれらは別に大したことはないが、次に来る連中となるといけない。この連中は軍服まがいの服を着ている。戦闘帽を頂いている。時としては軍刀が佩いている。身分は特務機関、連絡事務所、憲兵隊等の重要なる任務を帯びていると称する。威厳ある態度を以て支那人に接する。自分の欲しいものは軍の御用に役立てねばならぬと申渡す。これらの中には朝鮮人の通訳と云うものが多数含まれる」。「この次に来るものが経済人と称する紳士である。彼等の多くは国策に貢献せんとする熱意か、或は反対に他に重要な仕事があって忙しい身分であるが、御上の命令でやむを得ずやって来たと云う。そして不思議と敵産の家や工場や鉱山を手廻しよく発見する。そしてこれが管理を受諾する」。「これらの日本人が中支でも北支でも実に多数であった。私はこの種日本人が何をなしたか詳しく知りもせず又記述する考えもないが、結論的に云えば全く日本人の面汚しであった。彼等は日本人たるの矜持を持っている。而しそのなすところは無教養の無作法で支那人の蔑視を買うのみならず、利己的経済活動は国策に寄与するどころか、日支親善、東洋平和の根本国策に救うべからざる禍根を残した」。


 この記述から「侵略」に積極的に加担する日本人を、武藤が「邪魔」に感じていたことがわかる。しかし、これらの「邪魔」になっていた日本人を、軍は排除できなかった。そして、これらの日本人は流れが変われば臨機応変に対処したが、軍は容易に方向転換できず責任を負わされることになった。軍人としては、やりきれない気持ちになる。


 武藤の手記や日記を読む限り、戦場でも一般民衆や捕虜、在留邦人に、軍は気配りしていたことがわかる。いっぽう、武藤自身、ひじょうに差別的な考えをもっていたことが、朝鮮人にたいする蔑視や「日本人を、黒人か比島人位にしか考えていない」といった記述などからわかる。結局は、劣勢になり、食糧や兵站に事欠き、自軍の兵士だけでなく、戦場となった地域の人びとに悲惨な結果をもたらした。それぞれ言い分はあるだろうが、誰かが責任をとらなければ、戦争の清算はできない。


 他方、だれがどうのこうのというのではなく、当時の日本人や社会がなぜ「勝算なき無謀な戦」に突入することを許したのかを考える必要がある。そのためには、なぜ「積極的」になったのかがポイントになるだろう。「消極的」であったならば流れは変わったかもしれないが、「積極的」であったからこそいったん流れはじめると止めることができなかった。「積極的」な方向に導いたのが、教育やメディアなどであったことは間違いないだろう。戦争と教育、戦争とメディアとの関係が問われるのも、理由あってのことだ。


 本書の手記や日記は、「一片の記録も、一葉の地図もない」獄中で、「記憶にのみ拠らなければならぬ」状況下で書かれた。挿入された数葉の地図は、妻の武藤初子の「あとがき」によると、「元参謀栗原[賀久]氏、元副官稲垣忠弘氏」の助力によったという。すでにレイテ戦がはじまっていた1944年10月にマニラに着任した武藤が、レイテ島がどこにあるのかも知らなかったことを考えると、フィリピンの地名がかなり正確に書かれていることは驚くべきことである。本書の初版が1952年12月であることを考えれば、助力を得たのは地図だけではなかったのだろう。


 本書初版の出版は、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復して、戦争について自由に書けることになったことと、その2~3年前からレイテ戦や山下裁判についての本が相次いで出版されたことと無縁ではないだろう。戦争当事者の手記や証言は、語られた時代背景のなかで読み解き、「だれにも責任がない」のに戦争がはじまることの意味を考え、未然に戦争が起こらないようにする力にしなければならない。

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