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『たのしい写真 よい子のための写真教室』ホンマタカシ(平凡社)

たのしい写真 よい子のための写真教室

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 思い出をかたちに、というふれこみで写真を一冊の本のかたちに編集するという商品の、フィルム会社のテレビコマーシャルを眺めていて、思い浮かぶのは生まれたての自分のまるはだかが写された一枚からはじまる、父親の編集による分厚く重たいアルバムなのだったが、ここでかたちにする、といわれているのは、ついデータばかりがたまってしまうデジカメ写真のことなのだった。フィルムのカメラを手にしなくなってからというもの、かたちのある写真というものが私の生活に登場することはめっきり減った。そのことを、ここ数年、ときたま思い出しては、「写真」というものに対する我が身の処しかたを定めかねている。「写真」ってなんだろう。

 かつて、海外旅行先で立ちよったギャラリーでみた写真が忘れられない。その忘れられなさは、印画紙に定着された海辺の景色の像と、写真の展示されたギャラリーという場も含んだ外国の街、そしてそこを旅する私と私をとりまく世界、のどこに由来するのだろうと考える。もしもこれが、写真でなく絵画だったとしたら、それは作品そのものから得た、たとえば「感動」なんてものにすんなりと落ち着きそうなのだが。

 芸術としての写真は、そのほかの技法による芸術作品と同様「つくられたもの」と知ってはいても、写真を写真そのものとして眺められないことがあるのはどうしたわけか。写真が現にみえるものを写し、その時点でつねに虚構性をおびるとは百も承知で、その現実と虚構のあいだで右往左往している自分がいる。私がみたのは、そこに写された、どこかにあるはずの海辺の景色か、それともそこに表現された作品のなんたるかなのか、それともそれとも。

 そんな写真に対するもやもやとした思いを、ホンマタカシは手際よく整理してくれた。なんだか本当に「よい子」になった気分だ。

「そんなの写真じゃないよ」とか「もっとリアルに撮らなきゃダメだよ」という言い方をよく耳にします。それを聞くたびに、そもそも「写真って何だろう?」「写真のリアルって?」という疑問に駆られます。プロと呼ばれる写真家になって20年も経つのに、その疑問はつねにボクにとって、ある種の息苦しさをともない続けています。

 原因のひとつは、〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせいだと思います。そもそもPhotographという単語の語源に「真実」という意味は含まれていません。

 photo=光 graph=描く、あるいは画

 ですから、普通に訳せば「光画」ぐらいの訳語が妥当でしょう。

 「写真」ということばは、もともと中国の画論で「写実」と同様の意味を持つらしい。そういえばそんなことをどこかで聞いたか読んだかしたはずなのだがすっかり忘れていた。それはやはり、ホンマのいうように「〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせい」かもしれない。あらためて認識せずとも、長らくPhotographを「写真」と呼び慣わしてきた私たちは、みたままそのままにものを写しとる(決してそんなことはないのであるが)のが写真、とやはりどこかで思いこんでいる。西欧において、写真が絵画技法の一端として発明されてきたのに対し、それを採りいれた日本人にとっては、光の仕業を利用した技術に対してよりも、みたままそのままの像への視覚的な驚きがまさっていたためではないか。

 写真は現実をとらえたものである。しかし、それは同時に、誰かに意図的に選び撮られたものであり、編集され、加工されたものかもしれない。現実であると同時にいくらでも加工可能であるという、この二重性が写真の特徴です。いや、もっとはっきりいえば、「どうとでもなり得る」という多重性こそが、写真の本質なのです。ヴァルター・ベンヤミンと言う「本物にたどり着かない芸術」。そこで写真の一番面白いところなんです。

 「決定的瞬間」と「ニューカラー」の対比から説かれるホンマ流・写真史にはじまり、エルグストンや中平卓馬等、著者の写真観を裏付ける作家に触れながら、二十世紀からこんにちまで、写真のたどったみちすじが語られる「講義篇」。

 「写真を読む」「写真を疑う」「写真に委ねる」をテーマに、写真の一回性、本当らしさ、技術の進歩による撮影表現の可能性に意識を注いで撮ってみよう!という「ワークショップ篇」。

 たのしいのは「放課後篇」。ポストカードの「絵はがきショット」、アシスタントとしてはじめて行ったニューヨーク、ロバート・フランク、ポラロイド写真のセンチメンタリズム。著者が写真家として語るべきトピックスは今日的かつ普遍的で、これまで、私たちにとって写真がいかなるものであったのか、そしてこの先、私たちにとって写真がいかなる存在となってゆくのかを意識せずにはいられないテキストの集合である。

 おしまいの「放課後篇」は作家の堀江敏幸との対談。題して「すべての創作は虚構である?」。

 もし仮に真実と嘘があるとしたら、写真はそのどちらにもなり得るもの、あるいはそのふたつの間を行ったり来たりするものです。ある時はファインアート、ある時は雑誌のグラビア、ある時は広告、またある時はプリクラだったり、ファミレスのメニューだったり。実際、写真はボクたちのまわりの至るところに存在します。自由に、多義的に、いかがわしく。だからこそ今日的。それが写真のたのしさだとボクは思うのです。

 写真を撮る、写真をみる。そのこと自体はまごうことなき現実。写真が写真となったとき、それをまなざす私たちは、写真というものの虚構性と現実とのあいだのグラデーションを、自らの世界観に照らして「行ったり来たり」するということなのだろう。

 そしてこれは蛇足だけれど、この写真家の写真論も、かたちある一冊の書物となることで、現実としても、あるいは虚構としても読まれてゆく可能性を孕む魅力を備えていると思う。というくらい、ホンマタカシは書き手としてもチャーミング。


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