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『ムガル帝国から英領インドへ』佐藤正哲・中里成章・水島司(中公文庫)

ムガル帝国から英領インドへ

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 本書は、1998年9月に出版された『世界の歴史』の文庫版である。口絵の建造物の写真や絵画は小さくなったが、それでも観ているだけで、このような建造物を建てた権力者や絵画の背景となった文化や社会とはどのようなものだったのだろうか、想像をかき立てさせるものがある。


 本書は、「ヒンドゥームスリムの相克と融和を課題とした諸王朝やムガル帝国の盛衰を描く第一部、西欧による植民地化と反乱の歴史を活写する第二部、南インドの伝統と英植民地政策の葛藤を詳説する第三部より成る激動の歴史」を3人の歴史研究者が、それぞれ独自の切り口で描いている。


 第1部「ムスリム王権の成立と展開」では、インド北部が、いかにトルコ、ペルシャ、モンゴルといった遊牧民征服王朝によって支配され、文化的に融合し、独自の社会・文化を築いていったかがわかる。中国の歴代王朝のうち半分以上が、遊牧民に起源をもつことが知られるようになってきているが、インドも中国同様、帝国の成立と社会・文化の発展が、征服民のもたらした制度や文物によって支えられていたことがわかる。


 たとえば、1266年に「奴隷王朝」のスルターンになったバンバンは、「スルターンの不可侵性と神秘性を強調するために古代中央アジアトルコ人の伝説上の英雄アフラーシアーブにその系譜を求め、孫たちと曾孫にはペルシアの神話・伝説上の王朝ピーシュダーディーの創始者カユーマルス、同じくカヤーニー朝の初期三代の王名、カイ・クバード、カイ・カーウース、カイ・ホスローの名前をつけて権威づけ、自らの立ち居振る舞いには厳粛さ、もったいぶった態度を維持した。宮廷の儀式はペルシア式に、その礼儀作法はセルジューク朝やホラズム王国にならい、スルターンへの挨拶には跪拝(ひざまずいて礼をおこなうこと)をおこなわせた。しかも、中央アジア西アジアから亡命してきた支配者や貴族たちもその例外ではなかったから、スルターンにいっそうの権威と威厳をつけ加えた」。


 このデリー諸王朝の時代にはじまったペルシャ文化の影響は、ムガル時代に顕著になり、インド文化と融合して、多彩な文学芸術が発展した。その背景には、ムガル朝が、祖国を追われた多数のペルシャ人の貴族や文化人を保護したことや歴代の皇帝の后にペルシャの王族・貴族の出身者が多かったことがある。そして、ペルシャ語公用語となり、それがイギリスの植民地化後もしばらく続いた。


 このようにインド北部にとって、現在のパキスタンからアフガニスタンは侵略者の進入する入り口となるとともに、文化・文明を吸収する入り口ともなった。現在でも戦略的に重要な地であることの歴史的意味がわかった。しかし、第2部「英領インドの形成」では、ヨーロッパ人は海からやってきた。そして、ムガルがインドを組織化していたのを利用して、進出してきた。


 第2部では、「イギリスがなぜ比較的容易にインドを植民地化できたのかを考える」数々の要因をあげている。まず、「ムガル帝国は、ポルトガルの活動にまったく無関心であった。年代記の類にもほとんど記録を残していない。当時のインドの支配層は陸の支配を志向していて、ポルトガルからほとんど影響を受けなかったから、関心をもたなかったものと考えられる」という。それは、「十七世紀のインド洋貿易においては、ヨーロッパへ輸出する商品の主役が香料とコショウから綿布へ、主要な輸出品の産地が東南アジアからインドへと大きく転換し」、イギリスが台頭してきても、たいして変わりがなく、「インド洋貿易がインドにとって持つ意味は、まだ周辺的でしかなかった」。「ヨーロッパとの関係の影響が本当の意味でインドに現れてくるのは、十八世紀半ば以降のことである」。


 第2部の執筆者である中里成章は、インドの植民地化を容易にした疑問を解くひとつの鍵は、地方都市にあるという。「というのは、イギリスがインドを経済的に搾取するシステムをスムーズに展開できたのは、地方都市に住む商人たちのネットワークがすでに存在し、それを利用することができたからだと考えられるし、また、急速に拡大する支配地域に行政機構を順調に整備できたのは、地方都市で行政経験を積んだ役人層を取り込むことができたからだと考えられるからである」。そして、ラムモホン・ライ(1774-1833)のような「改革派」の指導者が、「外国支配が悪弊を生むことは自覚していたが、それよりもイギリス支配から得る利益のほうが大きいと考え」、さらに「イギリス支配の下でのほうが、インド人はより大きな自由を享受しているし、裁判所では正義が実現していると考え、そのような方向にインド社会が変わっていくことに希望を見いだしていた」からである。


 この第2部では、半分近くのページを占める「都市の生活」「農村社会とその変動」「中間層と女性」で、人びとの生活が生き生きと描かれており、支配者側から見た「植民地化」ではなく、生活する人びとの目線で「植民地化」がとらえられている。それは、最初のほうで述べられた「植民地支配の捉え方」のつぎの記述を、納得させるものにしている。「イギリスの植民地支配は十八世紀から二世紀近くの間続き、インド社会のあらゆる方面に大きな影響を及ぼした。カルカッタやN家の例を引くまでもなく、このことは議論の余地のない事実である。だが、それでは逆に、インド社会に起きた大きな変化をすべてイギリスの植民地支配に帰することができるかというと、事はそれほど単純ではない。たとえ植民地支配の下に置かれていても、インド社会にはインド社会としての固有の変化が進んでいたと考えたほうがよいようなのである。このことも、インドが数千年に及ぶ長い歴史を持つ地域であることを思い起こしてみれば、自明のことであろう。イギリスによる植民地支配体制は、インドとイギリス、この二つの個性的な力がぶつかり合うなかで、徐々に形成されていったのである」。


 第3部「南インド史の舞台」は、ユニークな構成になっている。それは、南インド史では18世紀まで「ほとんど資料らしい資料がない」ことによる苦肉の策の結果である。執筆者の水島司は、「色々と思い悩んだ結果、全体を五幕に分け、大きな政治的・経済的な流れは幕間で概説する形でおさめ、外国人の記録から窺えるような細かい歴史の襞の方は劇中で描くというやりかた」をとった。つぎに列挙した目次を見れば、その苦労がわかるだろう:「祈る-チョーラ時代」「幕間」「鍛える-ヴィジャヤナガル時代」「幕間」「耽溺する-ナーヤカ時代」「幕間」「崩れる-植民地化時代」「幕間」「刻まれる-植民地時代」。


 この5幕には、「五人の進行役が登場する。進行役と言っても、いずれもそれぞれの時代において、ある意味で主役あるいは準主役をつとめた者たちである。個性的な生涯を送りはしたが、彼らすべてが幸せな最期を迎えたわけではない。体に突き刺さる何本もの剣を引き抜こうと、もがきながら散っていった人物、自分で築いたすべてのものが失われていくことを病床の中で思いつつ息をひきとっていった人物、あるいは破れた夢を想いながらインド洋へと旅立っていった人物も含まれる。しかし、いずれの人物も南インド、インド洋、あるいは世界という空間に確実に足跡を残した点では一致しており、中には世界史のその後の流れの角度を少なくとも何度かは変える役割を果たした人物も含まれている」。


 本書から、インド史がインド亜大陸という地理的空間におさまらないものであることが、よくわかった。インドに影響を与えた国・地域や人びと、インドの影響を受けた国・地域や人びと、それぞれの歴史を考察することによって、インド史はさらに奥深いものになっていくように感じた。それは、遊牧民が行き交う大陸性のインドと海洋民が行き交う海洋性のインドが、織り合わさって歴史をつくっていくことによって生まれるダイナミズムと洗練された文化に表されている。

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