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『新版 原発を考える50話』西尾漠(岩波書店)

新版 原発を考える50話

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 本書を読んで、まず思ったことは、「危険な原発はいらない」という当たり前のことが当たり前に書いてある、ということだった。つぎに思ったことは、にもかかわらず、いまも原発による発電に頼って、わたしたちは生活しており、本書はわたしたちの生活を脅かすとんでもない「悪書」であり、すぐに発禁にすべきである、と考えても不思議ではない、ということだった。この矛盾を理解することが、いまの日本の社会の矛盾を理解することにつながる。


 日本の公共事業は、いったん決められると、状況が変わっても、「お役所の権威」のために変更することができなかった。日本各地に建設された巨大ダムは、工事でうるおうことが優先され、建設後のことは考えようとしなかった。ようやく高度経済成長に貢献した巨大公共事業が、現代に合わないことがわかってきて、数十年前に計画されたダム建設などの見直しがおこなわれるようになってきた。原発も、数十年前の計画が基本にあり、当然見直す時期にきている。


 原発の危険性については、本書の50の見出しのいくつかを見るだけでわかる:「下請けの下に孫請け、ひ孫請け」「事故は起こる」「死体か資源か」「放射能を消す手品」「そしてだれもいなくなった」「核物質に手を出すな」「人は誤り機械は故障する」「老い原発」「逃げろや逃げろ」「備えあれば憂いあり」「算定不可能なリスク」「電気は出ていく放射能は残る」「不思議の国の原発PR館」「つくられる需要」「電気をすてる発電所」「原発は地球を救わない」「出口なし」。


 これだけ危険性を指摘され、安全性に疑問がもたれても、原発が存続する理由は、安全性が真剣に考えられていないことだ。著者、西尾漠は、つぎのように指摘している。「安全の業務にたずさわる人たちの価値が、現実には尊重されていないということです。企業の論理としてお金がもうからない安全の業務を軽視するということもありますが、研究者ら自身が開発推進は積極的でおもしろく、安全研究は消極的でつまらないと見ているようなのです。でも、「安全」イコール「消極的」という考え方のもとで放射能廃棄物のあと始末がおこなわれたらどうなるでしょうか。このままでは、原発が動いているときより廃止されたあとのほうがはるかにおそろしいとすら言えるでしょう」。


 いま原発が全廃されたら、わたしたちはたちまちに困るのか? 今年の夏はほんとうに暑かった。しかし、電力不足の話は出なかった。もちろん、そうならないように原発があり、電力会社は努力している。現状では、原発を全廃したら、1年のうち数十時間は停電するという。しかし、これくらいなら、つぎのような省エネを心がければ、なんとかなると著者は述べている。「夏になると防寒具がよく売れる過剰冷房社会の見直しはもちろん、クーラーをつかうとしても、その選び方、取りつけ場所などの考慮、機器の特性に合わせた使用モードの選択、扇風機の併用、フィルターの掃除、人体やオフィス機器から発生する熱の逃がし方の工夫、熱源でもある照明の省エネルギー化等々、最大電力を小さくするためにできることはいくらでもあるはずです」。しかし、もっと「必要なのは、省エネルギーが企業の利益になるような社会的なしくみであり、右肩上がりの「成長」に固執してきた企業の意識変革でしょう」という。


 「環境をこれ以上汚さずこわさずに、私たちがほんとうの意味で豊かな暮らしをしていくためには、当面は化石燃料を少しでも効率よくつかいながら、エネルギーの消費を小さくし、自然エネルギーをじょうずに利用する世の中に変えていくことが、どうしても必要なのです」。そして、最後の「50 私たちにできること」を、つぎのように結んでいる。「現在のようなエネルギー浪費構造と、それに基礎を置く経済のあり方が、国際的にも国内的にも変化を強いられないとはとうてい考えられませんし、すでにさまざまな局面で新しい事態を迎えています。そうした変化を積極的にとらえ、私たちにとって望ましい社会を準備していきたいものです」。


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 2010年5月6日に高速増殖炉もんじゅ」が運転を再開した福井県で、反対運動を続けている棡山(ゆずりさん)明通寺(真言宗御室派)住職中嶌哲演(なかじまてつえん)さんの話を聞く機会があった。すぐにすべての原発を撤廃しろ、というようなことは主張していない。これ以上原発を増設しない、アジアへ原発を輸出しない、核廃棄物の後始末をする、被爆労働者の安全・救護対策をする、など現実に対応できることから原発をなくそうと提案している。


 そして、核の再処理施設などが集中する青森県六ヶ所村アメリカ軍基地が集中する沖縄県と同じように、補助金に頼る地方行政の自立を考えている。かつて日本帝国陸軍・海軍の基地や施設を誘致した「軍都」で、今日発展している都市はあまりないことが、歴史的に検証されている。補助金に頼り自立の道を切り開こうとしなかったからだともいえるし、自立の可能性のないなかで一時的にでも繁栄したともいえる。問題は、だれが得しだれが損をするかという問題ではなく、放射能で汚染されたり、基地が攻撃されたりして、人命が失われたとき、だれも責任のとりようがないことである。


 806年に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる明通寺の中嶌住職は、「討伐」され処刑された蝦夷アテルイやモレらの鎮魂と平和を祈願して、六ヶ所村のある青森の人びとの痛みと願いを切実に共有せずにはいられないという[『-若狭の原発を考える-はとぽっぽ通信』]。


 原発による発電が、多くの人びとを危険にさらしてまで、いまのわたしたちの生活に必要なのか、はたまた、原発にともなう技術が将来の日本にとって必要なのか、広い視野と長期的な展望のなかで、ひとりひとりが考えなければならないことを、本書からも中嶌住職からも教えられた。

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