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『創造する東アジア-文明・文化・ニヒリズム』小倉紀蔵(春秋社)

創造する東アジア-文明・文化・ニヒリズム

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 まず主題を見てちょっと気になったが、副題を見てわたしにはわからない本だと思った。つぎに帯の背の「自己の中の他者との邂逅」を見て、別世界の話だと思った。帯の表、裏には、それぞれつぎのように書かれていた。「絶対的な他者など存在しない。「一つの<個>」という概念も、フィクションである-。日中韓の関係の背後にあるものをとらえなおし、多重主体的な自己と世界を構築する未来への思想。〝わかりあえない〟は、悲劇か?」。「一枚岩の世界が2つになる=文明 分節したのち、1つの世界として定着してゆく=文化 いずれの価値観からも離脱する、0的立場=ニヒリズム <2・1・0>をキーワードに、社会とは何か、人間とは何か、を解き明かす野心的な真理の探究」。ここまでくると、わからないことを確認したくなった。


 わたし個人にとって、本書を読んだ最大の収穫は、韓国歴史ドラマの「イサン」や「トンイ」がよりよく理解でき、楽しめるようになったことだ。「イサン」で諸悪の根源のように語られていた「ノロン派」が朱子学の党派のひとつ「老論」で、近世朝鮮を理解するもっとも重要なキーワードであることが、つぎのように書かれていた。「朝鮮朱子学はその厳密な学説解釈の相違と権力掌握の闘争によって、まず東人と西人というふたつの党派に分かれる。そして東人が北人と南人に、西人が老論と少論とに分裂して、その後、主にこの四つの党派が争うようになるのである。その中でも十七世紀に生まれた老論は、特に重要である」。「老論派が最も強い影響力を誇っているのは、その執権期間が長かっただけではない。朝鮮後期の<文明>的アイデンティティ(これはすなわち<文化>的アイデンティティでもある)を規定した最も強力な枠組み、ひとつの巨大なパラダイムそのものであったからである」。「老論思想の枠組みをひとことでいうならば、「小中華パラダイム」といえる。中国で明(一三六八~一六四四)が滅んだ後に中華の伝統を継承したのは夷狄(いてき)=野蛮人たる女真族の清(一六一六~一九一二)ではなく、朝鮮なのだ、という思想である。ここに「文化自尊」というキイワードが誕生する」。


 老論が発明した「小中華パラダイム」は、もうすこし具体的につぎのように説明されている。「朝鮮が「中国から離れること」ではなく、「中国の真髄になりきること」によって中国を相対化しようという考えである」。「ここで「真髄」というのは、朱子学である」。「すなわち老論は朱子学を絶対化することによって、中国を相対化したのだ」。そうすることによって、「部分」にすぎない夷狄=野蛮人の清よりも、「数百年の間、全社会を朱子学化しようという変革に次ぐ変革の歴史を経験してきた文明国」で、「「全体」に限りなく近似している」朝鮮のほうが、「観念的に上位であることは明らかだ」。


 このことを理解していれば、「「文明=文化自尊」の思想を強く持っていた朝鮮が、こともあろうに二十世紀になって日本の植民地に転落してしまった。この衝撃は、想像を絶するものがある」ことがよく理解できる。「日本(倭)こそ野蛮(非文明)の典型的な存在だったからである」。


 ドラマだけではない。上記のように、具体的事例をあげて説明されている部分では、それぞれ学ぶことが多かった。とくに東アジアの中国・朝鮮・日本を「文明論的な自己意識を<2・1・0>として把える傾向が強いこと」がわかった。「つまり、中国は自らを<2>と規定し「世界の文明的中心=中華」という自尊心の理念的支柱とした。これに対して朝鮮は自らを<1>と規定することによって安全保障上の戦略とし、また文明=文化的自尊心の中核とした。また日本は自らを<0>と規定し、中華=<2>からも小中華=<1>からも自由であるという点をもって「日本特殊論」の自尊的土台としたのである」。しかし、著者は「むしろ実態は逆であり、「中国=<2>」、「朝鮮=<1>」、「日本=<0>」という等式は恣意的で誤謬(ごびゆう)であった」と指摘している。


 全体として、本題とどのように結びつくのか、よくわからない部分が多く、抽象的な議論にはついていけなかった。そのような読者を対象としてか、「あとがき」は、「結局、この本で語りたかったことは、何だったのであろう」ではじまり、つぎのようにまとめてくれている。「ひとつの大きな断層がある」。「断層のこちら側は、東アジアの文明・文化の関係性に関して、それを<2・1・0>という運動として解釈するという地平である。「中国=<2>」、「朝鮮=<1>」、「日本=<0>」という固定的で図式的な関係が語られる」。「しかし断層の向こう側では、その<2・1・0>という運動は、文明や文化という概念を間違って認識したことによる誤謬(ごびゆう)である、と語っている。これはこの地域の為政者やイデオローグたちが自己のアイデンティティを強権的に塗り固めたものでもある。これに対抗して、<2・1・0>の運動を新しく解釈しなおすことにより、東アジアの隠された関係性があらわになって来、未来に向けて「新しい東アジア」を創造することができるのではないか」。「本書では、右のふたつの地平が語られているのだ」。


 そして、最後に「これからわれわれはどうすべきか」と問いかけ、つぎのように結んでいる。「東アジアの関係性が激変している今、文明・文化に対する旧来の定義によってこの地域を構築してゆくことはもはや不可能ではないか、と私は考えている」。「これまでとは全く異なる人間観、文化観、文明観が必要ではあるまいか」。「そのことを、本書では説いた。そしてその先に来るものを「多重主体主義」や<たましひ>などという言葉で提起したのが、この本なのである」。


 といわれても、やはりわからなかった。ごめんなさい。でも、わかることもあった。ありがとう。

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