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『呪いの時代』内田樹(新潮社)

呪いの時代 →紀伊國屋書店で購入

「『呪いの時代』を乗り越える処方箋」


 著者の論述には、意外性や逆転の発想がこれでもかというくらい詰まっていて毎回引き込まれる。「呪いの時代」というタイトルを目にしたとき、評者がイメージしたのは「呪いや占いのようなスピリチュアルなものがメディア文化や社会に蔓延していることを論じた本だろう」というものだった(ちなみに、そのようなテーマの本も2010年に、竹内郁郎・宇都宮京子編『呪術意識と現代社会――東京都二十三区民調査の社会学的分析青弓社、石井研士編『バラエティ化する宗教青弓社、が相次いで出版されている)。


 読み始めると、どうもそのようなテーマではないことがすぐにわかる。しかし、著者はなかなか「呪い」を定義してくれない。学会での研究者同士の批判の仕方、「ユダヤ問題専門家」を名乗る人たちの知の枠組み、ネット論壇の言語表現…。他人への批判の形式と関係があるのかと思っていると、「呪い」の言説が際立ってきたのは1980年代半ばだったという議論へ。そこから冒頭の批判の形式の議論と「ひきこもり」、「自分探し」、「安倍晋三」がアクロバティックに接続されていくのは非常に興味深いが、ここでもまだ「呪い」が何を指すのか明確な答えを出してはくれない。

 第1章の最後には「呪い」が何か説明されるのだが、そこに至る前に大方の読者にはそれが何を意味しているのが語彙的な意味ではなく、ある種の社会的なリアリティとしてイメージできているのではないだろうか。
 著者の言葉をまとめると、それはこのように説明できるだろうか。現代日本は羨望や嫉妬や憎悪が生身の個人を離れて多様なメディアにおいて一人歩きしている時代であり、その発話者は相手を破壊すると同時に自己の全能感と自尊感情を満たそうとしている、と。そして、そんな「呪いの時代」を生き延びる処方箋も明確に示されている。

「それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの『正味の自分』をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです」(36頁)

 本書は、著者が2008年から約3年半にわたって『新潮45』に不定期連載したものを加筆・修正したものだが、「呪い」というキーワードでそれぞれの章、さまざまな事象が見事に束ねられている。

 第6章「『草食系男子』とは何だったのか」もアクロバティックな展開だ。草食系男子と現代社会を結び付けて論じようとした本は少なくない。それらのなかには、ここでいわれているような「権利請求」の戦略(自分を弱く見せることで有利な状況になるのを期待すること)と同様の傾向を指摘したものもあろう。だがその先、つまりその戦略の帰結点を見越した議論にこそ著者の力量を感じる。
 著者はその戦略で採用されている「ペルソナ」(「人間関係の中で、過剰に他者を傷つけない、過剰に傷つけられないための防衛システム」と説明されている)の危険性を非常にわかりやすく論じている。それは同時に、そのような論述がこの章のテーマ「草食系男子」にだけ向けられたものではないことも示唆していよう。例えば1990年代以降、ネットの発達とともに日本社会に定着した「クレーマー」という行動様式にも同じ根を見ているのだ。

 さて、東日本大震災後に書き加えられた第10章「荒ぶる神を鎮める」。本章が震災前、フクシマ以前に発表されたものだったとしたら、評者を含め多くの読者が「えっ?」という感想を持ったかもしれない。しかし、原子力を「荒ぶる神」、原子炉を一神教の「神殿」にたとえるところから始める議論は、「原発と日本人」を根源的にとらえる視点を提起している。今回の原発事故は「人災」であり、日本人が原発への畏怖を持たなかったこと(著者は「瀆聖」と表現する)に根本があるというのである。
 著者の筆致は、現在進行中のTPP(環太平洋連携協定)、首都機能の一極集中問題から東日本大震災後の日本社会の構想にまで及ぶ。そこでも、哲学者のレヴィナスホロコースト後に問いかけた人間的意味、映画『ジョーズ』、能の『安宅』における弁慶の行動様式などが鮮やかに接続されるが、著者の主張は一貫してシンプルだ。

「呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結び付けている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである」(あとがき、285頁)

 本書を通じて、評者自身は相変わらず呪いの言葉を繰り返しているメディアや、生身の身体を喪失させるメディア空間への関心をあらためて強くした。本書は「呪いの時代」を乗り越えることを志向するスケールの大きなものだ。

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