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『マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦』早瀬晋三(人文書院)

マンダラ国家から国民国家へ-東南アジア史のなかの第一次世界大戦

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 文字通り、小著である。だが、この小著でさえ、すこしこのテーマにかんして知識がある人なら、1冊の本になるとは想像だにしなかっただろう。著者であるわたし自身も、すこし調べて、とても無理だと思った。それが可能になったのは、参考文献を訊いてまわるわたしに親切にこたえてくれた東南アジア史研究者はもちろんだが、共同研究「第一次世界大戦の総合的研究」(京都大学人文科学研究所)のメンバーが有形無形に後押ししてくれたからである。


 2007年4月からもう5年になる月2回開催される研究会に出席しているうちに、自分の役割と書かなければならないことがだんだんわかってきた。書くことを決意したとき、「5年かけても、まともなものは書けそうにないので、半年で書くことにした」と、メンバーの何人かに告げた。ある人は、「わたしなら、書かない」と言った。わたしも、研究がある程度進んだ分野のテーマであるなら、一定レベルのものが書けないのなら書かない。しかし、わたしが書こうとしていたテーマは、これまで概説書や通史などでまったく触れられてこなかったものを多く含んでいる。また、東南アジア全体を見まわして書いたものがなかった。しかも、テーマが「世界」大戦である。主戦場となったヨーロッパや大戦を利用して東アジアで勢力を拡大しようとした日本の話だけでは、「世界」大戦にならない。当時の東南アジアは、多くの国・地域が欧米の植民支配下に入り、古くから密接であった中国との関係もつづいており、日本との関係も深まってきていた。東南アジアを通して、欧米と東アジアをつなぐことができるかもしれない、さらにそれが「世界」を理解する一助になる可能性がある、そう思うと、もう学問的レベルのことなど、どうでもよくなった。とにかく書けば、第一次世界大戦の「総合的研究」のとっかかりのひとつを提示することになると思った。


 だが、いざ準備をはじめると、まず日本語ではシンガポールにかんする桑島昭の論文以外まとまったものはなく、通史でもインドシナとタイを除いて具体的な記述は皆無だった。英語では、桑島などが書いたシンガポールにおけるインド兵の反乱についての本が何冊があり、フランス領インドシナとオランダ領東インドにかんしてそれぞれ第一次世界大戦期を扱った本が最近出ていた。アメリカ領フィリピンでは、国防隊創設のいきさつの論文がひとつあった。後は、英語の概説書や通史、事典の項目などから拾い出していくしかなかった。このような断片的な情報をつなぎ合わせて、それぞれの国・地域、そして東南アジア全体を見渡すことが、果たしてできるのだろうか。不安ななかで執筆をはじめた。


 まず、事実関係から整理をはじめたが、もちろん第一次世界大戦期だけで、1冊の本になるとは思えなかったので、その前後をどう結びつけるかを考えた。東南アジアの場合、従来、第一次世界大戦を契機に民族運動が高まり国民国家への形成へと向かっていったことと、輸出経済が進展したことがいわれてきたので、この2点を中心に話を進めることにした。ほんとうは、国・地域ごとに語りたくなかったが、第一次世界大戦への対応は当然欧米の植民宗主国ごとになるため、東南アジアを一括りで語ることができなかった。それでも、1冊の本の分量にしては少ないように思えたので、第4章として、現在の各国の歴史教科書で、第一次世界大戦がどのように語られているのかを加えた。その基として、世界の教科書で2つの世界大戦の語られ方を比較したディスカッション・ペーパー(名古屋大学大学院国際開発研究科http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/bpub/research/public/paper/article/186.pdf)があった。ヨーロッパと日本で、ずいぶん違うことを研究会で学んでいたから、その語られ方を整理していた。


 このように、研究会で学んでいたことから、書くべきことがわかっていたのか、最初に考えていた以上に書くことがあった。つまり、研究会はヨーロッパや日本にかんすることが中心であったが、5年間で100も報告を聞いていれば、自ずと自分が書くことがわかってきていたのだ。あるいは、共同研究のメンバーが、「門外漢」のわたしがいることで、わたしが書くべきことを、意識的であろうがなかろうが、発表や質疑応答のなかで示唆してくれていたのかもしれない。このように考えると、本書はわたしが書いたというより、研究会が書かしたといっていいだろう。


 ナショナル・ヒストリーに限界があるように、東南アジアという地域史にも限界がある。とくに、古代から中国、インドといった大国の影響を受け、近代には欧米との関係も密接になった東南アジアは、グローバルに歴史を考える格好の材料を提供してくれる。また、地域性豊かな「マンダラ国家」は国民国家が成立した後も、社会的基盤として地域社会に根強くいきつづけている。ナショナル・スタディーズから抜け出せない東南アジアの各国の研究者や西洋中心史観から抜け出せない西洋学研究者、ともにそれを意識さえしなかった人びとに、本書がなんらかの刺激を与えることができたなら、望外の喜びである。


 したがって、自分の関心のあるところだけ拾い読みするというのは、著書であるわたしにとっていちばん大きな失望で、しかもそれをほめられるとしばらくボー然として立ち直れないのではないかと思ってしまう。国・地域ごと、分野ごとなら、それぞれの専門家が分担執筆すれば、もっといいものになったことは明らかである。しかも、間違いや不適切な文章は格段に少なくなる。かつて、ある概説書の再版を出版したときに、数百ヶ所訂正したという話を聞いたことがある。その本を全学共通科目の教科書にしていたわたしは、なかば冗談で100ヶ所以上訂正箇所を見つけた者には、先着1名に限り100点の成績をつけると言った。初版と再版を丁寧に比べて読まなければわからないだろうから、教科書の内容を充分に理解してくれると思ったからである。ところが、わたしの想像を超える、内容をまったく理解しない方法で100ヶ所以上を見つけてきた学生がいた。概説書の執筆というのは、それだけリスクがある。しかし、それを補ってあまりあるものがあると信じたからこそ、無理を承知で書いたのである。拾い読みせず、文字通り小著なのだから一気に全部読んで、全体像からこの本の長所を読みとってほしい。そして、いたらぬところに気づいて、自分自身の課題にしてほしい。本書を通して、歴史から学ぶことを発展的にとらえる人が増えることを願っている。

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