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『共在の論理と倫理-家族・民・まなざしの人類学』風間計博・中野麻衣子・山口裕子・吉田匡興共編著(はる書房)

共在の論理と倫理-家族・民・まなざしの人類学

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 「本書は、清水昭俊先生から教えを受けた学生有志によって編まれた文化人類学の論文集である」。本書を読み終えて、個人的にはまったく存じあげない清水昭俊先生が、いかに優れた研究者であり、教育者であったかがわかった。さまざまな地域や分野、関心をもつ論文をひとつにしたとき、いくら編者がうまく説明しても、バラバラ感はぬぐえないのが通常であるが、本書にはなにかしら一体感があった。それは、各論稿が、「清水への言及を結節点としながら互いに関係しあうことに」なったからにほかならない。


 その編者のうまい説明は、「まえがき」でつぎのように記されている。「本書は、さまざま[な]地域や分野を対象とし各自の関心を異にしつつも、この願いを共有する文化人類学者が、それぞれの研究を持ち寄り、「地域研究」「個別分野の研究」を超えた広がりの中に自らの探求や思考を位置づけ、特定の「地域」や「分野」(研究)の背後に控える「人類」(学)の在りようを浮かび上がらせようとする企てである。そのために、本書では、対象地域や分野が多岐に渡るにもかかわらず、各執筆者の間で共通する一点、すなわち、それぞれの学的基盤の形成過程で清水から少なからず影響を受けた事実に注目し、清水のこれまでの仕事のいずれかに言及することを執筆の条件とした」。そして、「共在」、つまり、「人と人が共に在り、関係することが、いかなる影響を当の人びとに与え得るのかという問いへと読者を」誘っている。


 本書は4部16章と、清水昭俊寄稿「民の自己決定-先住民と国家の国際法」と中国人の教え子の随想「清水先生に見守られてきた私と中国の人類学」からなる。


 第1部「人のつながり」の1、2、3章は、「清水が提示した家族・親族、そして集団的紐帯をめぐる理論的枠組みと各自のフィールドにおける民族誌事例とを対話させつつ、清水の枠組みと民族誌的資料双方の含意を汲み取ろうとする試みである。4、5章もこの点は同様であるが、この二つの章は、家族・親族理論以降の清水の関心とも共鳴している。4章は家族という事象の「力関係」をめぐる側面を照らし出し、5章は近代以降の「文化接触」を対象にしながら、清水の家族・親族理論の読み直しを行い、既存の人類学的韓国社会研究の限界を乗り越えるための方策の提示を試みている」。


 「第2部「抑圧と周辺性の諸相」は、家族・親族研究以降に清水が関心を寄せた「周辺民族」、あるいは「先住の『民(族)』」に関わる問題を対象とした5本の論稿から成る。いずれも、「周辺性」あるいは「先住の『民』であること」が、当の人びとにとってどのようなものとして具体的に経験されているのかを描き、論じる」。


 「第3部「まなざしの交差する場」は、特に人びとに向けられる他者からの視線、また対象となっている人びとが自らに向ける視線の現在を主題として、フィールドの「いま現在」の「進行中の事象」に焦点を絞った4本の論稿から成る。言うまでもなく、人類学は、人類学者が人びとに向ける視線の一類型である。いまや人類学者の視線は現地の人びとが自らに向ける視線、あるいはその隣人たちが人びとに向ける視線に対して「客観性」に基づく優位性を主張できなくなっている。人類学が対象とする人びとが置かれている視線をめぐる「現在」を知ることで、人類学は自らを省みることができる」。

 「第4部「人類学の再構想」は、人類学が社会の中で果たし得る役割についての考察を促す2本の論稿から成る。「永遠の未開文化」の探求をもっぱらとする人類学が、「いま現在」の「現場で進行中の事象」に向かい合ったとき、現に生きている学的対象たる人びとと人類学者との関係の再考が迫られ、人類学の社会的再定義が求められることになる。清水が人類学の限界を乗り越える契機として再び呼び起こしたマリノフスキーは、植民地統治改革のために実用人類学を唱えるマリノフスキーであった」。


 本書を読み終えて、なにか得した気分になった。いままで、当然のように一方的に語られてきた視線から解放されて、もうひとつの視線があることを気づかせるものが随所にあったからである。たとえば、カナダ先住民の長老に、「あなたは私とあなたがカナダという国から平等に扱われていると思うか」と問われた中国系カナダ人が、「そう思う」と答えたのにたいして、長老はつぎのように答えている。


 「それは違う。我々はあなたたちのような自由を持っていない。我々の住んでいる土地は、我々個人の財産にはならない。私は、祖父や父がやっていた方法でサケを捕ることも禁じられている。もしもあなたが中国にいる時に誰かがやって来て、今日から中国語を話してはならない、中国式のお祭りも結婚式も葬式もやってはならないと言われたらどう思うか。そんなことをした人たちの言うことを信用できるか。そんな人たちが作った国を自分の国だと思えるか。あなたたちはここに来て幸せに暮している。子供たちが自分たちの言葉を話せなくなっているのを何も感じないかもしれない。でも、我々はイギリス人が我々にしたことを決して忘れない。第一、この国がカナダになるずっと前から我々はここにいるのだ」。


 このことは、近代に語らなかった人びとが語り始めたことを意味し、近代に「奉仕」した人類学からの解放をも意味している。人類学者だけではない。いまわたしたちは、近代に語る術を持たなかった人びと、口を閉ざさせられた人びとの視線で、現代、そして未来を見つめる必要がある。そんな視線を理解している論稿が並んでいるような印象を受けた。

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