『一つの太陽-オールウエイズ』桜井由躬雄(めこん)
「大緊張をもって読ませていただきました。最も強く感じた事は、結局、貴君だけが、まともに地域学をやったのだ、ということです」。本書は、タイ国日本人会の会報紙『クルンテープ』2010年11月号~2012年11月号に連載された「一つの太陽-オールウエイズ」をまとめたもので、読み終えた高谷好一先生が11月19日付け書簡冒頭で、このように述べている。それから1ヶ月もしない12月17日に、著者桜井由躬雄は急逝した。67歳。
連載のきっかけは、著者が師とする石井米雄先生(1929-2010)を亡くしたことで、本書「はじめに」はつぎの文章ではじまっている。「二〇一〇年二月一二日の石井先生の死は、戦後の日本で生まれ育った東南アジア研究の、太陽の早すぎる落日であった。そのとき、この落日が東南アジア研究の死に至らないかという不安を持った。このエッセイは、結局、その不安の分析にあてられるかもしれない。それは先生がもっとも悲しむことである。先生の死を乗り越えて、世界一を誇る日本の東南アジア研究をさらに輝かせる。それが私たちの、若い世代への新たなマニフェストのはずだ」。「そのために、ここで石井先生の死に至るまでの日本の東南アジア研究が歩んだ道について語ることにした」。
強気で他者の発言を封じるように、大声で威圧して自己主張する著者の生前の姿を知っている者は、その姿そのままの文章のなかに、著者の「本音」を聞き、著者の魅力を思い起こしているかもしれない。強気のなかに「弱さ」があって、その「弱さ」を打ち消すために、大声で「虚勢」を張る。その「魅力」に、多くのベトナム人も学生も虜になった。
ベトナム人は、2009年第1回国際ベトナム学賞に、著者を選んだ。その受賞演説は、つぎのことばで終わり、満場総立ちで万雷の拍手を得たという。「現在、私は地域学者であります。地域学とはなんでしょうか。私の最初の答えはこうです。地域学は、地域を敬愛する心の表現である。私が死んだら、ぜひ天上でホーチミン氏に会いたいと思っています。私はホーチミン氏に報告します。『私は日本人です。それでも私の人生と私の科学的事業のすべてをベトナム地域研究に捧げてきました。この四四年間の私の研究の結論は、以下のとおりです。私はこよなくベトナムの大地を敬愛しています、私はこのうえなくベトナム人が好きです』。ベトナム、ありがとう。皆さん、ありがとう。」
その翌年、重篤の心不全に陥った著者のベッドには、内外の学生が折った千羽鶴1500羽が飾られ、旧友に「桜井さんのまわりをご家族と学生さんが、固い輪を作って守っている」と手紙に書かせた。その死の生還時に描いた3つの残業(バックコックムラ調査報告書出版、『ベトナム概説』出版、ハノイの歴史の再構成)を、生きてかたづけることはできなかった。できていれば、もっと大きな顔をして天上に行くことができたと、悔しがっていることだろう。
本書(連載)は、つぎのことばで終わっている。「長い、長いこの連載、この回で終わる。「オールウエイズ」、また「一つの太陽」というタイトル、いかにも評判の映画のもじりに見えて安っぽい。しかし、この題名で伝えたいことは、映画の「昭和伝説」とは関係ない」。「この六七年間、人並みに挫折もし、鬱にもかかった。失業もし、貧乏に苦しみ、逮捕拘禁もされた。大学の職を失いかけた夜、妻と子供たちの寝顔を見ながら、一家心中というのはこういうときにするのだな、としみじみ思ったこともある。人間関係に深く傷ついて押し入れの中で呻吟したこともある。その度に、内にあってはよき親、よき兄姉、よき妻、よき子、外にあってはよき師、よき友、よき学生に引っ張り上げてもらった。海外でなにごとかあれば、必ずよきサマリア人が現れた。人生は人々の恩愛で、満ちあふれている。そして私自身の上空には、いつも「地域学」という一つの太陽があった」。「オールウエイズ(いつもいつも)」、浪高しといえど、天気は晴朗である。今は漕ぎ出でん」。いつもなにか大きなものに頼りながら「自信」をつけた言動に、助けざるを得ない雰囲気をつくっていた。
二人三脚で東南アジア研究をリードしたふたりの「巨人」(石井・桜井)の死は、ひとつの時代の東南アジア研究の終わりであろう。それが、新たな時代の始まりになるのか、死に絶えるのか。著者は、東南アジア史学会から東南アジア学会に2006年に名称を変更したことで、「東南アジア学の中の東南アジア史、地域学の一部としての東南アジア歴史研究が日の目を見た」とし、「東南アジア研究再興の連合拠点ができた」と自負している。歴史空間としての東南アジアを大切にし、地域研究としての東南アジアは井の中の蛙やお山の大将になることなく、もっと広い場で議論すべきだという意見に聞く耳を持たず、リーダーシップをとる気もその実力もないと自覚している歴史研究者を批判し、「歴史学者のおごり」と曲解した。名称変更という安易な手段をとり、新しい学会をつくるという産みの苦しみを経なかったことで、地域研究学会としての東南アジア学会は、著者が考えたような「東南アジア研究のすべての領域をカバーし、吸収し、発展させるもの」にスムーズに移行できたか、天上から石井先生とホーチミンと見ていることだろう。合掌。