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『戦争社会学の構想-制度・体験・メディア』福間良明・野上元・蘭信三・石原俊編(勉誠出版)

戦争社会学の構想-制度・体験・メディア

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 まず、いろいろ学ばなければならないことがたくさんあることを教えられた。第Ⅰ部「「戦争」研究の系譜と社会学」では、「この分野を切り拓いてきた代表的な研究者」から、「自らの学問を生み出すに至った経緯やその社会的・学問的背景」について学んだ。第Ⅱ部「「戦争」を社会学するための方法論」では、「戦争社会学を構想するうえで必要な方法論」について考えさせられた。そして、最後の第Ⅲ部「戦争の社会学/社会史の展開」では、「戦争社会学の今後の可能性に向けて」、比較的若い世代がさまざまな試みをしていることを教えられた。


 つぎに、本書の基本は、タイトル通り、「社会学」であって、本書「第11章 「歴史学社会学の交差」についての偶感-『戦争社会学ブックガイド』をめぐって」で、一ノ瀬俊也氏が批判的に、つぎのように述べていることとは違うと感じた。「なぜ「戦争学」ではダメなのか」、「「戦争学」には歴史学、文学をはじめとする人文学、社会科学、ひいては理系の諸学問分野も入ってくるだろうが、戦争を学問的に論じるのであれば、名前だけでも誰かを排除するよりは誰にでも開放されている名付け方をしてスタートしたほうがいいのではないか」。近代西ヨーロッパを基盤に成立した社会学は、その後近代化した西ヨーロッパ以外の国ぐにでも受け入れられ、国民国家のための学問となった。本書でも、方法論は欧米、事例は日本中心に議論されている。日本が戦場とした東南アジアについては、だれもなにも語っていないし、参考文献にもあがっていない。執筆者の視野にあるのは、せいぜい沖縄や小笠原までである。したがって、本書で議論されていることは、近代の学問としての社会学を基盤としており、それを越えるという意味での「戦争学」ではない。


 「はじめに」の「二 領域の定義をめぐって」では、「しいて定義めいたものをするとすれば、「戦争と社会との関わりを考察する研究領域」といったところであろうか」と述べ、つぎのように説明している。「戦争社会学の範囲や境界を明示的に確定させることに、さほどの生産性があるとは思われない。何が戦争社会学であり、何がそれでないのかを定義したところで、そこに知的な膨らみはあるまい。「戦争と社会との関わり」およびそれを駆動する社会的な力学を問うことが第一義であって、その思考を豊かなものにするためには、当然ながら(狭義の)社会学以外の分野から吸収すべきものもあり得よう」。


 本書は、「まずはこれまでの研究蓄積や方法論をいったん整理し、さらに今後の広がりを考え得るような書物」の必要性を感じたところから企画された。その限界については、つぎのように説明されている。「もっとも、本書が「戦争と社会」をめぐる研究のすべてを網羅できているわけではない。ことに欧米圏に目を向けると、軍事社会学や近接する政治学・平和学の研究蓄積には相当に厚いものがある。それらも当然に戦争社会学に密接に関わるはずのものであろう。一部の章ではそれらの整理・言及がなされているものの、これらの領域を包括的に扱えていないのは、本書の限界かもしれない。だが、ひとまず、おもに日本の研究者によってなされつつある仕事を整理することにも、一定の有用性はあるだろう。別の見方をするならば、それに絞ったとしても、全十五章に及ぶ分量を要している。これまでの戦争社会学の方法論を俯瞰しつつ、今後の新たな展開をどう構想していくのか。本書を通して、こうした議論が喚起されることを願っている」。


 本書の「構想」は、戦争社会学研究会の発足を契機とし、つぎのような「呼びかけ」をおこなった。「第一に、(さしあたり)研究と議論の対象をアジア・太平洋戦争に関わる戦争と人間に絞ってはどうかと思います。理由は三つあります。一つ、アジア・太平洋戦争は、日本近現代の戦争の総帰結(戦後の戦争体験を含めて)であり、戦争と人間の研究にもっとも多様な問題を投げかけているからであります。二つ、アジア・太平洋戦争は、韓国・朝鮮や中国をはじめ多くのアジアの人びと、また沖縄や広島・長崎の人びとを巻き込み、苦難と犠牲を強いた戦争であったという意味でも、日本近現代の戦争の総帰結だからであります。三つ、残されたわずかな機会において、アジア・太平洋戦争の生き証人の体験を聞いて記録することは、社会学がなすべき焦眉の課題だからであります。ただし、さしあたりアジア・太平洋戦争に対象を絞るといっても、研究は、日本近現代の戦争と人間の全般に関わる問題群と不可分の関係にあります。したがって、研究の射程は、当然、それらを包摂せざるをえません。第二に、戦争体験の研究といっても、中身は多様なテーマから構成されます。研究会においては、テーマを限定することなく、会員が各自の関心をもとに研究を進め、議論し、その中から戦争社会学の形成に繋がる発見(実証と理論)を蓄積していくことになるのだと思います」。


 アジア太平洋戦争を事例に、実証と理論を蓄積するためには、日本が戦争空間として密接に関わった「大東亜共栄圏」全体を視野に入れて、議論していく必要があるだろう。しかし、本書の視野に、東南アジアは入っていない。研究の進んでいる日本、中国、韓国・朝鮮にたいして、研究の遅れている東南アジアは事実関係を確認するだけで大量の時間を消費し、深い考察になかなか入っていけない。ましてや、現地語や植民宗主国の言語の習得に時間を費やし、なんとか論文を書いた大学院生や若手研究者が、「戦争学」の基本さえ知らない、と日本や中国、韓国・朝鮮を研究している人に批判されると、新たな研究者が育つはずがない。出てきても、地域研究のなかに埋没し、「批判」される外の世界へ出て行こうとしなくなる。また、中国や韓国の研究者と議論するような場も、東南アジア関係だと限られてくる。日本語文献を読むことができる東南アジアの研究者が、ひじょうに少ないからである。日本の東南アジア研究者や東南アジアのアジア太平洋戦争研究者を含めて、アジア独自の方法論で「戦争学」を議論することができるようになるのは、いったいいつの日のことだろうか。


 「これまでの戦争社会学の方法論を俯瞰しつつ、今後の新たな展開をどう構想していく」かを考えるのなら、これまで議論されてこなかった分野・領域やテーマにはどのようなものがあるのか、考える必要があったのではないだろうか。わかるところから研究し、議論を深めていくという近代のスタイルから脱し、わからないことも視野に入れたうえで研究するのが現代の挑戦ではないだろうか。そう考えるようになると、進んでいない研究への関心や配慮も違ってくるだろう。

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