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『外交官の誕生-近代中国の対外態勢の変容と在外公館』箱田恵子(名古屋大学出版会)

外交官の誕生-近代中国の対外態勢の変容と在外公館

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 日本とアメリカのTPP(環太平洋経済連携協定)交渉が、長引いている。かつて、交渉力のない国は不平等条約を押しつけられたり、拒否して軍事力で受け入れさせられたりした。しかし、それが将来の紛争の原因のひとつになったことは、その後の歴史が物語っている。互いが納得して締結するためには、交渉に携わる人びとの知識と信頼関係が重要になる。だが、そのような人材は、はじめからいたわけではない。


 近代に欧米列強がアジアに進出したとき、日本(徳川幕府)にみられるように、はじめアジア各国は欧米と同じ土俵(近代法)で交渉することを拒否した。しかし、それがいつまでも通用しないことがわかると近代法を学び欧米列強と対等に交渉しようとした。いち早く対応した日本は、近代法への対応が遅れていた朝鮮やシャム(1939年からタイ)に不平等条約を押しつけた。では、中国はどうだったのか。1880年前後に、日本と清国は、奄美から尖閣諸島を含むはずの先島諸島まで、琉球列島の帰属問題について交渉した。そのとき実際に交渉した人びとはどのような人で、それは今日の問題にどう繋がるのか。そのようなことも、わかるのではないかと期待して、本書を読みはじめた。


 本書「序論」冒頭で、著者、箱田恵子は、つぎのように本研究のきっかけを述べている。「科挙制度の長い歴史を有する中国において職業外交官はいかにして誕生したのか。本書は坂野正高が投げかけたこの問いに答えようとするものであり、またこの問いに答えることが近代中国外交史研究に対して有する意義を明らかにせんとするものである」。


 外交官試験制度がなかなか確立しなかった中国で、著者が注目したのは「一八七〇年代半ばから主要国に設置された清国在外公館」であった。その理由は、「在外公館こそが、清末の中国において西洋国際関係の受容に主導的役割を果たし、民国外交部の基礎を築いた職業外交官が誕生する母体となったからである」。「一国の代表機関である在外公館の位置づけが改めて問われなければならないのは、清末中国における外交のあり方が関係して」おり、「中国における外交のあり方、あるいは対外態勢の変遷については」、すでに「清末の三つの段階、つまり「夷務」「洋務」「外務」の時代を経て、民国の「外交」につながっていくと指摘」されている。それを踏まえて、著者は「清国在外公館と「洋務」との密接な関係」に注目し、つぎのように説明している。「ここで言う「洋務」とは先ほど述べたように、通商や軍事、そして外交を含む対外関係の総体を指す。「洋務」という近代化を目指す政策は本来、読書人や政府当局によって担われるべき政策であったが、伝統的支配原理に抵触するがゆえに、実際には中央政府ではなく、地方の総督・巡撫の主導のもとに展開され、それが近代中国の最大の特徴である地方分権化をもたらしたことはよく知られている」。


 「序章」では、先行研究の成果を整理し、本書の課題を最後につぎのようにまとめている。「国家の代表機関である在外公館も、実質的には地方の洋務機関である「局」と同じ体制外的機関としての性質を帯びており、特に両者は人材面で基盤を共有していた。馬建忠がそうであったように、在外公館の構成員の多くは地方督撫(総督・巡撫)のもとで「洋務」に従事していた人材であった。この体制外的機関が、二〇世紀初頭にいかにして正規の制度の中に定置されたのか、地方分権化をもたらした「洋務」と出自を同じくしながら、この在外公館からいかにして国家の統合を象徴すべき職業外交官が誕生したのか、この過程の中に中国において形成され始めた近代外交の特徴が反映されているだろう」。「本書では、以上のような問題関心に基づき、「洋務」の一部として始まった清国在外公館において、外交それ自体の価値が認識されていく過程と、この外交交渉の現場において外交人材が養成され、その中から民国外交部の基礎を築く職業外交官が誕生する過程を明らかにしていきたい」。


 本書は、序論と3部8章、補論、結論からなり、各部の冒頭に簡略な説明がある。「第Ⅰ部 清朝在外公館の設立」では、つぎのようにまとめている。「清朝による常駐外交使節および領事の派遣に至るまでの過程とその意味を改めて問い直し、徐中約の見解との差異を示したい。それにより、在外公館の開設を、中国による国際社会への仲間入りの最終段階ではなく、むしろその起点と捉え、それ以降の変化に重点を置く本書の問題意識を明らかにすることとする。これまでの研究史を方向づけてきた徐中約の研究を批判的に継承すると同時に、在外公館をめぐる研究の新しい方向性を提示したい」。


 「第Ⅱ部 一八八〇年代以降における中国外交の変化」では、3章にわたって駐米公使による在米華人襲撃事件に関する交渉、駐英公使の滇緬界務交渉を取りあげ、「一八八〇年代以降の清国在外公館では、西洋の国際関係を積極的に受容し、清朝をその中に位置づけようとする外交活動が展開されていたことを確認した」。「第Ⅲ部 「外交官」の誕生とその特徴」では、「民国における職業外交官の活躍に道を開いたとされる一九〇六~〇七年の外交人事制度改革を、一九世紀後半以来、在外公館で進められていた外交人材養成の流れとの連続性において捉え、職業外交官が誕生する過程を明らかにする」。


 そして、「結論」で、つぎの3点などを明らかにしたと述べている。「本書は、科挙の伝統を有する中国においていかにして職業外交官が誕生したのかという問いに答えるため、清国在外公館に注目し、常駐使節の派遣に至るまでの経緯から、設立後の在外公館において西洋国際社会に対する意識の変化と外交人材の養成が進み、そうした在外公館での変化を基礎として職業外交官が誕生するまでの過程を明らかにした」。また、「本書では個々の外交交渉をつなぎ中国外交の変容過程を総体的に捉えるため、在外公館の組織と人事に注目し、民国外交部の基礎を築く職業外交官が誕生するまでの外交人事制度の展開を動態的に論じた。その中で、日清戦争前から民初に至るまでの外交人材の人的連続性が明らかとなると同時に、連続していたのは人的構成だけでなく、国際認識や外交観においても連続性があることが認められた」。そして、「本書は在外公館を洋務機関と同様の性質を有するものとする観点を出発点とし、外交における「洋務」の位置を明確にせんとしたことで、これまで「夷務」の観念と「民族主義」的「外交」の観念によって分断され見落とされてきた清国在外公館の役割と、その中国外交における位置づけを明らかにした」。最後に、「このように、在外公館における職業外交官の誕生過程は、清末における中国の対外態勢の変容とその特質を端的に示しており、ここに職業外交官の誕生を問うことの中国外交史研究における意義があるのである」と、結んでいる。


 冒頭の日本との領土問題・国境問題について、具体的な回答を得ることはできなかったが、当時の清朝外交については、基本的なことが得られた。交渉相手国や対象国・地域でも、対応が違っていたことが、つぎの説明からわかる。「清朝の在外公館が主要国に設立された一八七〇年代後半以降、中国の周辺では危機が連続して起こる。いわゆる「辺境の喪失」である。それは、清朝中国を中心とする伝統的な国際秩序が「条約体制」の原理に基づく再編を迫られ、緩衝地帯たる朝貢国が清朝の宗主権から切り離されていく過程であった」。「だが、琉球ベトナム、朝鮮に関しては、清朝とこれらの国々との宗属関係をめぐり、日本やフランスとの間で激しい対立に発展したのとは対照的に、ビルマに関しては、清英間で締結された協定において、イギリスはビルマ人による清朝への朝貢継続を承認した」。


 また、「在外公館における外交人材の養成において、駐在地域によって差異が生じていた点も重要である」とし、そこから日本と中国の外交関係の歴史的原点の特殊性をつぎのように明らかにしている。「ヨーロッパの公使館では職業外交官の養成が進んだ一方、駐日公使館からはそのような人材がほとんど現れなかった。日本の脅威を契機として海防論議の中で常駐使節の派遣が決定されたにもかかわらず、当初は日本語通訳を養成するシステムさえ整ってはおらず、最初の日本語学校は中国国内ではなく、駐日公使館に併設された。駐日公使館で職業外交官が誕生しなかったことは、日本と中国の関係が結局は近代西洋的な外交関係とは異なるものであったことを端的に表していよう」。


 このように日本と中国の近代外交史の特色を明らかにすることによって、今後の外交関係がみえてくる。また、中国と国境を接する東南アジアの国ぐにとの歴史的な外交関係から、現在起こっていることが読み解けるような気がした。「あとがき」では、「次の目標」として「清末・民初の外交官たちの具体的な外交活動を検討すること」が掲げられており、そこから学ぶことも多いと期待している。

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