『少数民族教育と学校選択-ベトナム-「民族」資源化のポリティクス』伊藤未帆(京都大学学術出版会)
タイトルをみて、まず本書を読みこなすためには「資源化」の意味を理解しなければならないと思った。つぎに副題の「ベトナム」の後の半角ハイフンが怪しく、気になった。そして、巻頭の4頁にわたるカラー写真の各頁のタイトル「教育に織り込まれた「伝統」と近代」「国民国家建設と近代化:より良いベトナム「国民」となること」「自己実現のための大学進学」「民族寄宿学校の寄宿生活」とともに、学生たちの笑顔と真剣な表情の意味がわかれば、著者、伊藤未帆と同じ目線で本書を読むことができると思った。
本書の目的は、「はじめに」でつぎのように語られている。「公的な枠組みとして制度化された「民族」をめぐる、さまざまな主体性のあり方について、ベトナムの「民族寄宿学校」という学校制度を事例に考えてみることである」。そのために、著者は、「北部ベトナム地域を中心としたフィールドワークで得られたデータとその実証分析によって、「民族寄宿学校」をめぐるさまざまな主体の動きに着目しながら、「民族」を枠組みとした国民国家建設のプロセスを跡付けるとともに、なぜ社会主義国家ベトナムが、冷戦終結以降、大きく変容しつつある世界的、国内的な環境の中で、今日もなおその姿を大きく変容させることなく54の公定民族を擁する多民族国家としてのまとまりを維持し続けているのかという問いを、資格としての「民族」、資源としての「民族」という視座から解き明かそう」としている。
「資源化」ということばについて、著者はその二重性について、つぎのように整理している。「そもそも資源の形成とは、欲求と能力という人間側の契機と、さまざまな「もの」からなる環境側の契機の機能的な相関であるとされてきた」。「すなわち、それ自体では単なる「もの」や「ヒト」に過ぎないものが、何らかの目的において、新しい価値や意味を付与されるという契機を経由することによって「資源」になるのである。そこで、「もの」や「ヒト」が資源になるという動的な契機を資源化という言葉で表してみると、そこには「資源にする」主体と、「資源にされる」客体とが同時に存在していることに気がつく。また同時に、その「資源」がそもそも誰のものであり、さらには、誰に対して、誰をめがけて行われた資源化なのか、という資源化の志向対象の問題も登場する」。
ベトナムでは、「地方政府が「少数民族」を資源化し、それによって得られる資源を確保しようとする動きがみられる。とくに1990年代半ば以降、地方分権化が積極的に推進されるようになったことによって、資源をめぐる地方政府の存在感はさまざまな場面ではっきりと観察されるようになっている」。そこで、著者は、本書で、「国家、人々、そして地方政府という三つの主体に着目したうえで、「民族」を単位として分配される教育機会の資源化と、分配をめぐるダイナミズムを明らかにしていきたい」という。そして、もうひとつの主体として、「資源としての「民族」を利用しようとする「部外者」の存在」を取り上げる。
終章「「民族」資源をめぐるポリティクス」では、この4つのそれぞれの主体からみた「民族」の資源化を、「①誰が、②誰の「民族」を、③誰のために、④誰にめがけて資源化するのかという四重の問いによって整理する」。
「自前の国民国家建設を担ったベトナムの国家エリートたちにとって、「民族」とは「ベトナム国民」を構成する不可分の要素で」、「①国家が、②(植民地支配から独立した時点で偶然にも)領域内に居住していた多様な出自からなる人々を、③国民の構成要素となる「民族」として、④国民国家創設のために動員したのである。そしてこの過程では、「民族」集団に対する教育機会の提供が、「民族」の資源化の目的として想定されていた」。
これにたいして、「ベトナム全国各地に建設されていった「民族青年学校」とは、①国家による「民族」を軸とした国民化政策の限界に直面した各地の地方エリートたちが、②公教育制度の外側に、私的な教育制度を作り上げることによって、③「民族」を単位としないオルタナティブな教育機会の提供を行う試みであった」。
「民族寄宿学校という学校制度の存在を通じて、少数民族自身が、自らの社会経済的地位達成をもたらす手段として「民族」という属性を再認識し、それを少数民族優遇政策の恩恵を得るためのツールとして積極的に、あるいは戦略的に利用しようとしている」。「①少数民族たちは、②自らの持つ「民族」資源を、③自分たちがよりよい教育機会を獲得するための資源として、④地方政府そして国家をめがけて資源化した」。
ところが、「そもそも資源としての「民族」という要素を持たなかった」「部外者」の「キン族の中から、少数民族に対する優遇措置の恩恵を、自らのよりよい教育機会の獲得に利用しようとする人々が現れた」。「①キン族が、②本来であれば自分たちのものではないはずの「民族」を、③自分たち自身のために、④地方政府や国家をめがけて疑似資源化した」のである。
そして、「悲劇」は起こった。「キン族による民族籍の変更という現象とは、少数民族優遇政策という稀少な資源をめぐる競争の空間に、キン族といういわば「部外者」が参入したことを意味していた」。その結果、「2012年7月に行われた大学統一入学試験より、それまで少数民族に対して一斉に行われていた優遇加点措置が廃止され、居住地域に基づく加点措置のみになったのである。もはや「民族」という境界が、大学進学という教育機会の獲得をめぐって何の資源的価値をもたらさないという新たな状況が生み出された」。
著者は、本書をつぎのことばで締めくくっている。「本書で論じてきた、「民族」の資源化という動的な契機をめぐる多様な主体のせめぎあいは、「民族」という境界を設けることで国家としてのまとまりを形成、維持してきた国民国家モデルが一つの終焉を迎えつつあるなかで直面した必然の帰結であり、ベトナムをはじめとする、世界中の多「民族」国家に与えられた、大きな試練なのである」。
「社会主義建設から市場経済へ」と移行するなかで、「失敗すれば即刻亀裂に直結する教育の公平性を多民族国家ベトナムはどう追求したか」は、巻頭のカラー写真のなかの笑顔と真剣な表情とともに理解できた。国家と地方政府とのあいだの緊張関係、ときに国境を越えて自己主張する民族、多数派民族さえも国家によって創設された「民族」を利用する、そんな中央集権的な近代国家ともイデオロギーに支配された社会主義国家とも違う東南アジアの一国としてのベトナムの姿が、「教育」を通して見えてきた。だが、副題の半角ハイフンの意味は依然としてわからないままである。