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『インドネシア 九・三〇事件と民衆の記憶』ジョン・ローサ、アユ・ラティ、ヒルマン・ファリド編、亀山恵理子訳(明石書店)

インドネシア 九・三〇事件と民衆の記憶

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 「訳者あとがき」の冒頭で、本書について、つぎのように説明されている。「本書は、インドネシアの民間団体である「市民による調査とアドボカシー研究所」「人道のためのボランティアチーム」「インドネシア社会史協会」の三団体によって二〇〇四年に出版された『インドネシア 九・三〇事件と民衆の記憶』(原題Tahun Yang Tak Pernah Berakhir: Memahami Pengalaman Korban 65〔終わることにない年-六五年被害者の経験を理解する〕のうち、聞き取りの様子を再現した第Ⅲ部「インタビューの記録」を除く全訳である」。


 1965年10月1日未明、「右派陸軍によるスカルノ打倒の動きを未然に防ぐためとして、大統領の近衛部隊が陸軍の首脳ら七人を誘拐、うち六人を殺害した。九・三〇事件と呼ばれる出来事である。その後陸軍は、事件はPKI[インドネシア共産党]が起こしたクーデターであると発表して、鎮圧後にはPKIに対する徹底的な掃討作戦を展開した。当時陸軍戦略予備軍司令官であったスハルト少将は、一九六六年にスカルノから全権委譲を受け、一九六八年には大統領に就任した」。「事件後にジャワ全土、およびバリで行われた虐殺については、実行命令の指揮系統や犠牲になった人びとの状況など、その全容はこれまで明らかになっていない。だがイスラム系青年組織などが動員され、少なくとも二〇万人、多ければ一〇〇万人の人が殺されたといわれている。また一五〇万人が逮捕、投獄され、多くの人びとは裁判もないまま、十数年の長きにわたって収容所での暮らしを余儀なくされた。釈放後も、「元政治囚」としての烙印を押されるなど社会的差別を受け、本書で描かれているようにインドネシア社会のなかでさまざまな市民的権利を奪われた状態で生活を送ってきた」。


 「強権的なスハルトの新秩序体制下では、それらの人びとが自らの経験を語ることは、非常に困難を伴うことであった。九・三〇事件後に成立した体制は、九・三〇事件はPKIによるクーデター未遂事件であったとする公式見解に基づく歴史を、学校教育や記念碑の建設、映画製作などを通じてインドネシア社会に広めた。たとえばスハルト政権時代には、毎年一〇月一日に「九月三〇日運動/PKIの裏切り」という宣伝映画が国営放送で放映されていた。そして「共産党の裏切り」と「国軍の救済者としての役割」が喧伝されてきたのだった」。「そのような状況に変化がみられるのは」、1998年5月にスハルト政権が退陣し、「三〇年以上に及ぶ独裁体制が終わりを告げてからである」。


 この機会を捉えて、編者らは2000年にオーラル・ヒストリーの収集をはじめた。その過程や結果は、「日本語版のための序章」(15-69頁)に詳しい。編者らは、「次のようなシンプルな確信に基づいてこれを始めることにした。すなわち、一九六五年から六六年にかけてインドネシアではなにがしかの人道上深刻な惨事が発生したということ、そしてそのときの出来事とその意味をインドネシア人自身が議論しはじめるべきときがすでに来たということ、である。はじめにテロ行為の被害者に関する調査を行うこととし、殺害された人びとの親類、政治囚として投獄されていた人びととその家族たちに聞き取りを行った。なぜならこうした人びとが最も固く沈黙をまもってきたからである。それまでインドネシアに存在したテロの時代に関するほんのわずかな議論といえば、加害者の側からのものばかりであった。私たちは被害者の側からの証言によって、これまでインドネシア人が語ることのできなかったインドネシア史上の事件について、新しく、より正確で詳細かつ広範囲にわたる検証が始まっていくことを期待していた」。


 「本書を支えるオーラル・ヒストリー調査は、集団的に行われた。二〇〇〇年の冒頭から、「人道のためのボランティアチーム」からの一〇名のグループが会議をもち」、「聞き取りの対象を元政治囚とその家族とすることにした。人生のなかで同じような経過(つまり一九六五年以前、そして逮捕、取り調べ、投獄、解放、その後の人生)を経てきた人びとの個人史を集めて、まとめ上げることをその目的とした」。260人の聞き取り調査を行った成果は、6名のボランティアによって書かれた論文として、本書に収録されている。6人のうち3人は、巻末の略歴から1989年、1996年、1999年に大学を卒業したことがわかる。調査をはじめるまで、九・三〇事件のことには関心もなく、知識もなかったことが、各章の冒頭からよくわかる。


 第一章は、つぎのような文章ではじまる。「私が学校で学んだ歴史では、九・三〇事件は突如として発生した混乱であり、後にスハルト少将が鎮圧に成功した転覆活動であった。九・三〇事件の背後勢力を壊滅する過程は、治安と秩序を回復する措置として描かれていた。そして確かに一九六五年一〇月の後、スハルトは治安秩序回復作戦本部の司令官に任用された。ルバン・ブアヤにある聖なるパンチャシラ塔のレリーフを見れば、スハルトは混乱から民族を救う救世主としての役割を果たしたのだと人は思うだろう。スハルトは九・三〇事件を鎮圧するための支配者として現れたと一般に説明されている」。「何年もの間、私は彼らが伝える歴史の解説に疑問を投げかけたことはなかった。また、一九六五-六六年事件をじっくり考えたこともなかった。私には、すべては古い過去の話であるかのように感じられた。スハルト退陣後になってようやく、それらの出来事は本当は論争に満ちているのだと私は認識するようになった。マスメディアの報告も、政府によってつくられた歴史を問いはじめた」。


 「共産主義者」被害者家族について考えた第二章は、つぎの文章ではじまる。「僕は「インドネシア共産党(PKI)の人たち」というものが、実は普通の人間だったとは思いもしなかった。PKIとみなされた人びとと会って話をする前に知っていたことは、PKIは何か恐ろしいものと同じだということだった。中学生の頃、「PKIの裏切り」という映画を僕はいつも同じクラスの友人と一緒に大勢で見ていた。僕らにとって、その映画はアクション映画のようだった。善玉に対抗する悪玉がいて、将軍らを誘拐して殺害したPKIの人びとが明らかに悪玉だった。でも不思議なことに、僕らはスハルトが英雄だとは思わなかった。ただ、あれほどまでに残忍な虐待を受けて殺された将軍らの家族にとても同情した。僕らのなかでは誰一人としてクーデターの問題、ましてや国家と民族の安寧について話す者はいなかった。要は、「PKIの人びと」は根絶されてしかるべき、つまり彼らは身の毛もよだつような悪事を犯したので生きるに値しない。先生でさえ、言うことを聞かない生徒を叱るときには「PKIめが!」と叫んでいた」。


 第五章「ロームシャと開発-スハルト体制における政治囚の強制労働」は、つぎの文章ではじまる。「インドネシアの学校で使用されている歴史の教科書には、一九四二年から四五年にいたる日本占領期の強制労働が残忍であったことについての記述が見られる。道路や要塞、飛行機の滑走路、港などを建設するために、日本軍によって多くのインドネシア人が強制的に徴用された。日本軍が彼らに与えた呼び名はロームシャ(労務者)であり、賃金を支払われない労働者を意味した」。「多くの人びとはまた、オランダ植民地時代における強制労働についてもさまざまな話を知っている」。だが、「インドネシアにおいて長く続いた悲しむべき強制労働の歴史のなかで、最近の事例は最も知られていない。スハルト体制は何十万人の政治囚、すなわち共産主義者やそのシンパであると非難された人びとを動員した」。「政治囚らの強制労働は、橋や道路、記念塔の建設に限られず、彼らは大工や家事使用人として軍人の家で働いてもいた」。


 「日本語版のための序章」は、つぎのことばで終わっている。「抑圧され周縁化された社会集団からの声がさらに加えられることで、この数年のうちにもインドネシアの歴史叙述がスハルト時代のそれとは大きく変わっていくことを、私たちは強く期待している」。だが、歴史教科書で語られる/語られない状況は変わらず、編者が出版した本が発禁になるなど、本書のインドネシア語版が出版されて10年、日本語訳が出版されて5年、編者らが期待したようには動いていない。1998年以降、たしかに多くのことが変わったが、変わらないものも多くある。このまま、真実は闇のまま事件の体験者は姿を消していくのだろうか。

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