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『兵士はどこへ行った-軍用墓地と国民国家』原田敬一(有志舎)

兵士はどこへ行った-軍用墓地と国民国家

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 「靖国参拝国会議員たち」も、「慰霊という、実は誉め讃える顕彰行為に没頭して、実際に埋葬されている人々や場に関心が薄い」。著者、原田敬一は、「「公」の名の下に国家が占有してきた「軍人の墓地」の歴史と実態を解明することをめざしている」。裏表紙には、つぎのような要約がある。「なぜ人は戦場に赴かねばならないのか。国家を維持するため、故郷と家族を守るため、という常套句では当事者たちは癒されない。そのために近代国家は、戦死者を追悼する空間を設定し、「愛国者」として記憶するよう国民に求めた。しかし、その方法は果たして世界共通なのか?日本ばかりでなく、韓国・台湾・アメリカ・ヨーロッパなど世界各地の軍用墓地や追悼施設を調査し、その来歴と現状を見つめながら、現代国家とそこに生きる人びとを今も拘束し続ける戦死者追悼の問題を考え直す」。


 本書は、プロローグ、3部全13章、エピローグ、あとがきからなる。各部の終わりには「小括」がある。第Ⅰ部「軍用墓地とは何か」は第一~四章からなり、「小括 戦争の終わらせ方と軍用墓地問題」では、国民にとっての大きな問題は「戦争をどう終わらせるのか」と、もうひとつ「戦争相手国との戦後をつくっていく、という課題がある」という文章ではじまり、つぎの文章で終わっている。「第四章では主に第一次世界大戦の終わらせ方に絞り、それも戦没軍人の「軍用墓地」というもののあり方という特殊な場面のみ検討した。当然戦没軍人を一途に賞賛する「記念碑」「追悼碑」についても検討はなされねばならない。本書は戦争を否定する立場ではあるが、「軍人文化」という新しい問題提起は、その延長上に考察するための補助線として提出しておきたい。このことから次の時代と社会が生み出されていくはずである」。


 第Ⅱ部「日本の軍用墓地」は第五~八章からなり、「小括 軍隊と戦争の記憶-軍用墓地の語るもの」では、「第一に、軍用墓地は、社会とともにその意味が変化した」と述べ、順を追ってつぎのように説明している。「最初は、兵役に従事した者が亡くなったという、公務死亡者の埋葬地で始まった」。「次に、日清戦争日露戦争戦没者が、個人または合葬の形で埋葬されることにより、「顕彰」の意味が強まった」。「そして、学校教育や新兵教育で、追悼の場となった軍用墓地が活用されるようになる」。「第二に、「軍用墓地」のありようによって、個人ごとの墓標、戦争による合葬塔の段階から、一九三九年からの忠霊塔建設運動による忠霊塔段階への相違が確認できる」。日中戦争全面化で激増した戦死者に対応するため、1938年に「陸軍墓地規則」が制定され、「個人がその輝かしい名とともに、階級・死因・死亡場所などをおおらかに披露していた「陸軍埋葬地」時代から、部隊名と戦争名しか見えない「陸軍墓地」時代へと劇的に変化した。勇敢に戦った忠なる部隊、という美称の下に、個人は見えなくなった。部隊が可視化され、個人が不可視化された」。「総力戦体制下の陸軍墓地は、戦没軍人・軍属を祀る靖国神社を絶対信仰とする臣民の感情への掃き清めの役割を果たすことになった。創設期や日清・日露戦争の時とは異なる、新しい陸軍墓地の様相が、靖国神社信仰を支える基盤を形成していた」。


 第Ⅲ部「欧米とアジアの軍用墓地」は第九~一三章からなり、「小括 国民にとっての軍用墓地・国立墓地」では、「日本の事例だけでは十分な検討が出来ないと考え」た著者が「アジアや欧米各国を調査して廻った結果」がまとめられている。「日本だけでは見えなかった問題が明らかになってきた」ことのひとつが、「「誰が埋葬者を決定できるのか」という大きなテーマ」であった。「国民国家が兵士の埋葬と顕彰に力を入れていたのは、「彼らに続く戦死者」を確保するためだった」とし、つぎのような文章で結んでいる。「国家は、自ら死者を造っておきながら、死者を覚えておきたくない。それが近代国家の性格であった。そのことに注意を向け、国家に死者を覚えさせておくこと、そのことによって、非業の死の国民を生み出さないための方策を考え続けること。それが残された私たちの仕事ではないだろうか」。


 ほかのアジアや欧米各国・地域と比較すると、日本の異常さがわかることが本書に書かれたこと以外にも多々ある。日本の戦前の記念碑銘は軍人によって書かれたが、戦後は政治家の名前が彫られている。靖国神社の宗教的問題にたいして、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が取りあげられることがあるが、8月15日に行くと日蓮宗が陣取り、最前列に国会議員が座っている。日本の戦死者追悼から、宗教だけでなく政治を取り除かなければならない。また、イギリスでは第一次世界大戦休戦記念日の11月11日(Remembrance DayまたはPoppy Day)が近づくと、戦争の悲惨さを思い出すために、人びとは胸に深紅のポピーの花をつける。テレビキャスターもみなつけるので、その日が近づいたことが容易にわかる。インドネシアでは、1942~45年の日本占領期から解放された2日後の8月17日の独立記念日を祝うために、子どもたちが路上で行進の練習をはじめることによって、その日が近づいてきたことを知る。可視化されることによって、人びとは思いを共有し、次世代に伝えていく。そのようなことが、日本にあるだろうか。敗戦のことを語らない、伝えない戦後の歴史が日本にある。


 ご挨拶:

 4月20日に「書評空間」が終了してからも、引き続きアップしてきましたが、メインテナンスをしていないせいか、だんだん動きが遅くなってきました。いつアップできなくなるかわかりません。どこかいい場に移れるといいのですが・・・。

 今年も2週間以上空けることなく、もはや書評とはいえないたんなる覚え書きをアップし続けてきました。来年4月で丸10年になります。4月以降も、数は大幅に減りましたが、「いいね!」「ツイート」に数字が出るのに驚いています。今後もなんらかのかたちで、続けていきたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。

 どうぞよいお年をお迎えください。


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