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『「戦場体験」を受け継ぐということ-ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて』遠藤美幸(高文社)

「戦場体験」を受け継ぐということ-ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を尋ね歩いて

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 「戦場体験」を記録したもので、もっとも資料価値が高いのは、戦場で書いたものである。だが、全滅した部隊では、そのような記録は、まず期待できない。わずかな生存者が戦場でのメモをもとに、時間をおかずに捕虜収容所などで書いたものなどが、つぎに期待できるものである。その後は、時間が経つにつれて資料的価値は下がっていく。「戦場体験」を記録しようとする者は、できるだけ正確に書こうと、戦友を探し、情報を集める。そして、1970年前後に防衛研修所戦史室から戦史叢書が出版されると、「公刊戦史」として貪るように読んで参考にする。たとえ誤りがあっても、偏った記述であっても、頼らざるを得ない。このように学習した成果としての「戦記もの」は、書いた本人が満足しても、歴史研究者としては資料的価値が低いといわざるを得ない。ましてや、「戦場体験」をしていない者が聞き書きしたものは、もはや「原資料」とはよべなくなる。敗戦後70年が経ち、「戦場体験」の意味がまったく違ったものになろうとしている現在、著者、遠藤美幸は、どのように「戦場体験」を受け継ごうとしているのだろうか。


 本書では、「公刊戦史」を参考にした記述が頻出するが、アメリカ公文書館やイギリス公文書館の資料に加えて、中国側の聞き取り資料も出てくる。そのなかには、日本軍に殺害された家族の戦後の暮らしが描かれたものもある。これら複数の側からの資料をつきあわせ、検討することによって、新たな戦場観と戦後を含めた戦史を描くことができるようになる。体験者本人が、わからなかったことや気づかなかった「真実」に、迫ることができることもある。


 このブログで前回取りあげた『シンガポール戦跡ガイド』の著者、小西誠が「大虐殺の実行責任者」と書いた辻政信も、本書では違ったイメージででてくる。たとえば、ひとつは有能な参謀として、つぎのように描かれている。「戦争は起きてしまったら、参謀どころか軍司令官さえも止めることが難しいのだ。戦争という暴走車は一度走り出したら、ブレーキが効かず、決着がつくまでは止めることができない。「断作戦」を立案し指揮した辻や黍野[弘]ら軍上層部の参謀でさえも、無謀で勝算のない作戦であることを認識しつつも全滅を回避できなかった。その代償はあまりに大きかった」。


 もうひとつは、戦後の日本社会のなかで「戦前・戦中の旧日本軍上層部の金と人脈が連綿と息づいている」例として、辻と児玉誉士夫岸信介鳩山一郎らとの関係が描かれている。そこには、「全滅戦」に関与したことなど、まったく感じさせない戦後がある。


 それどころか、辻が自著『十五対一』(酣火社、1950年)で「美談」を捏造したことを、つぎのように紹介している。「「日本人慰安婦は晴着の和服に最後のお化粧をして青酸カリをあおり、数十名一団となって散り、朝鮮娘五名だけが生存」(一二九頁)と書いているが、実態は、彼女らは死に化粧もしていないし晴着も着ていなかった。死因も青酸カリではなかった。さらに、日本人「慰安婦」の詳細がわからないだけに、死亡した二人が日本人かどうかも不明である。つまり、青酸カリをあおり、朝鮮人慰安婦」を逃がして、大和撫子は兵士とともに死を選んだというのは、辻の捏造した「美談」であり、事実とは異なる」。


 このような事実とは異なる「戦場体験」を含め、どう後世に伝えていくか。本書のような一般書ではなく、学問的にどのようなかたちで残していくのか、大きな課題を著者は背負っているように感じた。


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