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『戦後責任-アジアのまなざしに応えて』内海愛子・大沼保昭・田中宏・加藤陽子(岩波書店)

戦後責任-アジアのまなざしに応えて

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 「戦後責任」のことを考えれば、戦争をはじめることはできないはずだ。「戦後責任」は、だれもどのようなかたちであれ、とれるはずがないからだ。本書で語りあう4人は、そのことを充分にわかって議論している。


 本書は、表紙見返しに、つぎのようにまとめられている。「二一世紀の日本がアジアの人々とともに生きていくためには、今なお清算されない戦争と植民地支配の責任に向き合わなければならない。六〇年代以降、アジアの被害当事者たちの声に応えて、「戦争責任」=日本社会の不正義の問題に、市民として学者として取り組んできたパイオニア三人と気鋭の現代史家が、日本の未来をかけて語り合う」。


 「戦後責任」ということばについて、「はしがき」で3人のひとりで本書でもっとも多弁な大沼保昭がつぎのように説明している。「「戦後責任」ということばは、一九五〇年代にまず少数のキリスト者たちが、そして吉本隆明と武井昭夫が使ったものだった。しかし、それが今日一般に考えられるようなかたちで、とくに脱亜入欧信仰が強く、アジアを忘れがちな日本社会への自己反省を迫るものとして育まれ、定着したのは、アジアからの視線を受けとめ、それに応えるという意識をもって行われた一九七〇年代からの市民運動においてであった。内海、大沼、田中は具体的な学問と運動はすこしずつ異なるそれぞれの立場に立ちながら(その違いは本書にも随所にみられる)、その基本的な問題意識と姿勢を共有し、さまざまな運動を共に担うというかたちでその現場に居合わせてきた」。


 その3人の意見の違いから激しく対立したこともあったが、その違いを超えて一書にまとめることができたのは、「三人とは個人的にまったく関係のない」にもかかわらず、「司会兼インタビュアーの役割を務め」た加藤陽子の力量というしかなく、「あとがき」冒頭で本書のおもしろさを2点、つぎのようにあげている。「ひとつ目は、大沼保昭氏、内海愛子氏、田中宏氏、これら三氏の異なる個性が出会うことから生まれる討議の妙[略]。二つ目は、本書のテーマともなっている、東京裁判を含め戦争裁判がはらんでいた問題性、サンフランシスコ平和条約戦後責任に与えたインパクト等につき、これらの主題に長く取り組んできた三氏によって問題の核心が明らかになってゆく臨場感と醍醐味にある」。


 そして、それぞれのおもしろさを、具体例をあげながら説明をしている。ひとつ目の「三様の異なる個性がぶつかる面白さ」を、「読者は、序章「なぜ、いま、戦後責任を語るのか」の冒頭から、それを体験することとなる。なぜ、いま、戦後責任を語るのかという問いに対して、大沼は日本人のアイデンティティ再構築のためであると言えば、内海は、国の内と外、国境管理の法から今こそ日本を見つめ直したい、むしろ「なぜ、いまなお、戦後責任なのか」との問いがたてられるべきなのだと言う。田中はといえば、植民地帝国日本が遂行したアジアと太平洋における戦争が、当時にあって帝国臣民とされた朝鮮人・台湾人に強いた問題について、東西冷戦構造が崩壊し、経済のグローバル化が進展した今こそ見つめ直したいと語る。戦後責任に対する問題意識からして、実に豊かで多様なのだ」。「才気煥発で喧嘩早い弟[大沼]を、穏やかだが芯の強い姉(内海)と、穏やかだが危機の局面にめっぽう強い兄(田中)が、温かく見守っているという空気が流れ」るなかで、話は進んでいった。

 ふたつ目は、「東京裁判をはじめとする戦争裁判の問題性、サンフランシスコ平和条約戦後責任に与えたインパクトにつき、これらの主題を長年追ってきた三者のみがなしうる総括に立ち会える醍醐味だ。第一章[戦争裁判と戦争責任]で、裁判研究の新しい動向に言及しつつ、それらの研究に足りない点は何かについてまずは考察されていて貴重である。国際法を自らのフィールドとする大沼と、歴史社会学を自らの立ち位置とする内海がともに、過度に傾斜した一次史料重視主義に警鐘を鳴らしていた点がわたしには印象深かった」。


 加藤は「あとがき」を締めくくるにあたって、市民運動と政治家との関係をつぎのようにまとめている。「市民運動に理解があるとみられた革新政党労働組合の方が、ある時期のある問題群に対しては、既存の考え方に手を縛られて有効な運動を展開できなかった歴史もまた、本書の中では率直に物語られている。本書には、政治家の名前もきちんと書かれている。サハリン問題解決に功のあった議員懇の五十嵐広三と原文兵衛氏。二〇〇〇年、在日の戦没者・戦傷者の補償を対象とした法律(平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族等に対する弔慰金等の支給に関する法律)は、当時の内閣官房長官野中広務氏がいなければ実現しなかったであろうことを田中が書いている。中国人強制連行の花岡訴訟の和解に至る過程での社会党土井たか子氏の役割も興味深い。総じて、誰が問題の解決に頑張ったのかについて、きちんと黒白をつけて書かれている。本書が、市民運動を真剣におこなおうと考えている人のための政治的「ロビーイング」の教科書たりえている点だろう」。


 そして、つぎのことばで締めくくられている。「同時代を同じように生きていても、国内政治のあり方や思潮、国際社会への眼差しや「空気」がいかなるものであったのか、それを自覚的に歴史的記憶として留めることができる人間は少数派なのだ。本書は、歴史的記憶として自らの運動と思想を語りうる三者がつどった、稀有な討議となっている」。


 本書が市民運動の「教科書」であるなら、読者が学ぶことの第1は忍耐で、第2は人との繋がり、第3はアジアとの対等なまなざし、だろう。それらがいかに難しいことかがわかったとき、三者の偉大さがわかり、敬意を払わざるをえなくなる。アジア太平洋戦争前後に生まれた三者の声は、1960年生まれの司会者に確実に伝わった。それを「戦後責任って、何ですか?」「何をいまさら。戦後もう何年経ったと思ってんの?」と言う日本社会の多数派、とくに野中広務らの声に耳を傾けようともしない政治家にどう伝えていくか。三者の闘いはつづく。

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