『フランス ジュネスの反乱―主張し行動する若者たち』山本三春(大月書店)
2005年秋、ジエドとブーナという2人の若者が工事現場に仲間と入り込んだだけで警官隊に執拗に追跡され、立入禁止の変電施設に逃げ込んで、黒焦げになって感電死した。それをきっかけに、「絶望した少年」たちの暴動がフランス各地で勃発した。
2006年初春、26歳未満の若者を雇用した企業は2年間は理由説明なしに解雇できるというCPE(初回雇用契約)法案の国民議会審議開始を契機として、若者を中心とする大規模な抗議行動がフランス全土に広がった。
この2つの出来事の発端や経緯について、あたかもそれらが眼前で繰り広げられているかのように臨場感に富む詳細を教えてくれるのがこの本である。
読む者の多くは、この本の舞台となった国と、自らが住む国との共通性と差異について思いをめぐらすことになるだろう。
共通性は、まず何よりも、「グローバル化した世界資本主義の競争に勝ち残って企業が繁栄するために、労働者の権利を守ってきたあらゆる規制を取り払ってしまいたい」という、経営者群およびそれと結託した政府の欲望である。
そしてまた、社会を構成する一部の層を“有害分子”に仕立てあげ、彼らにマジョリティの憎悪を集中させることによって、結局は社会全体に管理、監視、暴力による制圧を行き渡らせようとする権力の思惑である。
しかし、こうした共通の背景や趨勢に対する市民の―特に若い市民の―ふるまい方には、彼我の間に巨大な違いがある。あの国の彼らは、はっきりと、そしてしたたかに、行動する。いかなる行動が可能かについて、本書は言わばマニュアルのような役割をも果たしている。『蟹工船』を読むくらいなら、本書を読む方がはるかに実践的に有用だ。たとえば大学生の動員についての「虎の巻」7箇条まで示してくれている(133-134頁)。また、それに対する権力側の策略―マニフに「破壊屋」を忍び込ませて正当な運動を暴力行為に見せかける、運動を長引かせて一般市民や運動当事者の「うんざり感」を募らせる(これは「腐敗化」と呼ばれる)等々―も克明に記され、それらに対していかに対処するかも記してくれている。
そうした個別具体的な運動の方法論が蓄積され共有されていることそのものが、彼我の巨大な違いのひとつである。しかしそれだけではない。諸々の記述の中でも強く印象に残ったのは、次のことだ。大学生・高校生を中心として学校封鎖やマニフの形で始まった「反乱」に対し、やがて教職員が合流する。若者の保護者や家族が加わる。そして一般の労働者までが広く流れ込む。「国の子どもたちは、国の大人たちが守る。闘いが正当である以上、弾圧などさせないのだ」(171頁)という、やはり広く共有された揺るぎない考え方に基づいて。
私は読むうち、何度か本を置いて嘆息した。何という違いか、と。そしてそのたび、嘆息している場合ではないと頭を振って読み続けた。
あの国でも、この2つの反乱によって完璧な勝利などが訪れたわけではない。CPEは撤廃されたが、ドヴィルパン・シラクの醜態を衝いてサルコジはまんまと大統領の席を得た。北京オリンピック開会式の貴賓席で不敵な笑みを浮かべていたサルコジの姿は記憶に残る。あの国でも、闘いは続いている。そしてこの国では、闘いが広がる気配は薄く、ただ突発的な痙攣のような悲惨な事件のみが積み重なる。でも、無力感や徒労感こそが、術中にはまったことを意味しているのであるならば、まだあきらめるわけにはいかない。何度でも、愁いの垂れこめる頭をぶるぶると振って、また背筋を伸ばし額を上げなければならないのだ。