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『Joan Miro Painting and Anti-Painting / 1927-1937』Anne Umland(Museum of Modern Art)

Joan Miro  Painting and Anti-Painting / 1927-1937

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「背中で見る」

(ミロの作品については、展覧会のウェブサイトもご参照くださいhttp://media.moma.org/subsites/2008/miro/

 絵にも第一印象というものがある。多くの人にとってミロの作品は、何よりもまず、その強烈な「何気なさ」が印象的だろう。ふわっと、暖簾のように舞い、捕まえようとすると向こう側に突き抜けてしまいそうなくらい、やわらかい。見れば見るほど、どこを見ていいのかわからなくなって呆然とする。騙されたような気分。

 もちろん、それは楽しい体験で、「へのへのもへじ」とも、「へにゃらもにゃら」とも、あるいは「鼻毛三本」とも呼べそうな、何とも気の抜けるような物体たちは、その曲がり具合といい、色調の素直さといい、くすぐったいような心地良さに満ちている。真正面から睨みつけても、ぬるっとこちらの視線をかいくぐる。そんなふうに翻弄されるだけで、まるで眼球に上質のマッサージを施されたような気持ちになるから不思議だ。

 しかし、そんな印象の向こう側には、実は秩序がある。どこをどう動かしてもいけないような精妙な釣り合い。その構成美。いかにも好青年風なミロの「何気なさ」も、そんな冷静な計算から生まれている。

 ミロの展覧会といえば、もちろん第一には楽しげで気まぐれな「さ迷い感」が期待されるだろう。でも、折角まとめて観るなら、どこかでロジックというか、根本の統一感をとらえて、ああ、そうだったか、と納得してもみたい。今回、ニューヨークの近代美術館(The Museum of Modern Art)で始まった特別展は、そうした狙いが前面に出たもので、1927年から37年というミロの生涯の中でもごく限られた時期をとりあげ、「アンチ絵画」というテーマを立てて、画家にとってのひとつの到達点を政治状況とのからみを含めてわかりやすく示している。

 1937年という年号から想起されるのは、何よりもスペイン内戦(1936~39年)。共和派だったミロも1937年にはパリに逃れることを決意する。27年頃の作品にあった、絵画というジャンルから軽々と飛び立っていこうとするような自由奔放な実験性が、最後の4~5ギャラリーの展示に至ると(1933~37)、次第に葛藤の芯のようなものを、さらには政治性を意識させるようになる、というのが企画者のいわば「議論」である。

 たしかに"Pastels on Flocked Paper/ 1934"のシリーズなどは、ピカソかと見まごうほどの求心性を持っていて、いつもの「暖簾に腕押しスタイル」とはちがって、何かを何とかしようとしているのかな?と思わせる。

 でも、ミロのおもしろさはピカソのような言葉の過剰とは逆の希薄さ、つまり、何となく言葉の足りない感じがつきまとうところでもある。たとえ"Pastels on Flocked Paper"のシリーズで、強烈な焦点の中心が現れ出たりしても、ミロは同時にそこから何かを差し引く術をこころえている。ピカソのように全部自分で言ってしまう、という画家ではないのだ。

 今回の特別展で何よりも「ああ、そうだったか」と知的な喜びを与えてくれるのは、"Paintings Based on Collage/ 1933"のシリーズだろう。(是非、ウエブサイトで確認してもらいたい。)この部屋に集められた油彩はこの画家のいわば看板作品群で、そのしっとりとやさしい幻想的な色調といい、線と面とが自由に交錯する不思議な物体感といい、いずれもミロのトレードマークとなってきた作風を示している。

 しかし、そんな画家の着想とバランスの「天才性」に打たれていると――そしてそれを取り消す必要は全くないのだが――そうした油彩の元となったのが、掃除機や手袋やおもちゃのピストルなどのイメージのコラージュであることを知らされる。ミロはこうした日常的で具体的な事物の像をカタログや雑誌から切りぬいてコラージュを構成したうえで日付を書き込み、コラージュを元に作成した油彩を完成させた日付をもそのわきに記録していた。画家にとっては、コラージュと油彩とは深いつながりを持っていたのである。

 これを単なる「種明かし」ととらえる必要はない。むしろ、コラージュから、あの豊かな油彩の表現世界へとさ迷い出していくことの方がよほどたいしたこと。どうしてこんなことできるの?というさらなるクエスチョンマークが浮かんでくる。

 コラージュに発想の原点を求めるのは同時代のシュールレアリストやキュービストにも通じる傾向である。もっと後のロバート・ラウシェンバーグ以降の抽象表現派×ポップアートの系譜にもそれはつながっていく。そんな中でミロがとりわけ際だっているのは、「地」の生かし方ではないかと思う。

 今回の特別展でも繰り返し強調されているように、ミロは素材との戯れを得意としていた。とくに"Small Paintings on Masonite and Copper/ 1935-1936"や"Paintings on Masonite/ 1936"のシリーズは圧巻で、住宅建設用の素材メーソナイト(発明した人が「メーソンさん」だったとのこと)や銅を実にたくみにミロ流の世界に取りこんでいる様がよくわかる。素材が色をはじいたり、あるいは吸収したりする、そのコンディションに抵抗するとこなく、むしろそうしたいちいちのやり取りを際だたせるかのように、「さあ、どうぞ」とばかりに門を開いている感じがする。組み伏せるのではなく、受け入れ、待つ。

 ミロの絵とは、どこかから聞こえてくる音に聞き耳を立て、どこかから漂ってくる香りを鼻で嗅ぎ取ってみせるようなものなのだ。特別展のキャッチフレーズである"Anti-Painting"はやや乱暴なほど単純に聞こえるかもしれないが(だって、近代の絵画はずっと「アンチ絵画」だったから)、たしかにミロは、目で見るという行為を、手や耳や鼻で行っている。素材のざらつきを感じ、イメージを引っ張ったり、切りぬいたり、遠くからのこだまにぼんやりと耳を傾けたり・・・という行為が、目の中で行われているのだ。

 地を際だたせるのは決して当たり前のことでもなければ、やさしいことでもない。それは言わば背中で思考するようなもので、目で見ることを手や耳や鼻で行うというちょっとひねった設定も、そのあたりの心地よい拘束感に由来するだろう。あえてやらないこと。黙っていること。書いて/描いてしまわないこと。語らないこと。

 ミロのコラージュにあるのは衝突や否定ではなく、あくまで浮遊である。それは肯定ですらなく、あ、いつの間に、という「察知」のようなものに近いのかなあと思う。それは一歩退くことによってこそ実現される、横目による「知」なのであり、画家本人にしたって網をかけるようにして語るしかないものなのだろう。

*ウェブサイトについての制作者のコメントは以下の通り。

「本ウェブサイトは、訪問者が各自の興味によって『経験』できるウェブアプリケーションです。

計107に及ぶ作品を、年代、サイズ、シリーズ別に並べ替えることができます(実際の展覧会はシリーズ別)。クローズアップも可。13の主作品については、ビデオとオーディオガイドもあります。又、フィルター機能を使用すると、キーワードや材料別にカテゴライズすることも可能です。」

(Studio Kudos)


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