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『愛撫』庄野潤三(講談社文芸文庫)

愛撫

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「日常生活に潜む不安」

時間の流れの違いなのだろうか。フランスから日本へ一時帰国すると、どうも落ち着かない。パリに似た、または一見それよりも美しく見えるカフェも大都市では増えているのだが、そんな所に座っていても落ち着けないのだ。何かに追われているような感じがしたり、不必要な罪悪感に似たものを感じたりする。パリのカフェではそんな事は全く無いのに。日本のリズムがそうさせるのだろうか。

 しかし、日本もかつてはそんなリズムで動いていたわけではない事が、庄野潤三の作品集『愛撫』を読むと良く分かる。高齢の現在も活躍している作家だが、ここには半世紀ほど前に書かれた秀作が七篇収められている。その内の一つ『静物』は、新潮社文学賞を受けた作品だ。父親(作家自身と思われる)と母親、それに3人の子供の、取り立てて大きな事件も無い日常を描いている。

 もちろん、世間的に大きな事件ではなくとも、一つの家庭にとって事件は沢山あるし、それが淡々と描かれている。そして、そこに流れている時間は、今とは随分違う。人と人とがきちんと向き合っているのだ。ゆっくりと相手を掴み取り、その全存在へ向けて言葉を発する。相手からも等身大の言葉が帰ってくる。私たちはしばらくこのような「当たり前の」会話を忘れているような気がする。パソコン、ゲーム、移動手段、通信機器等全てがスピードアップしている。「人」という存在は、それについていっているのだろうか。

 父親は上の子供二人を連れて釣堀に行く。なかなか釣れないのだが、偶然のように小さな金魚が一匹釣れる。親子はその金魚を持ち帰り、金魚は子供の勉強部屋に住みつく。子供が三人いるのだから、いつ金魚鉢に何かが起こっても不思議ではない。だが、意外と「事件」は起こらず、金魚も無事なままだ。そんな時父親が言う。「よそ見している時にかかった金魚だ。大事に飼ってやらなくては」

 一見何の変哲もない一言のように聞こえるが、どうも気にかかる。これは父親にとって、自分と家族との関係ではないのか。真剣に「釣りたい」と思った妻でも子供たちでもない。「よそ見」している時に「かかってしまった」家族なのだ。それゆえにこそ大切にすべきである。それこそが人生であり、現実である。空想の世界で生きていくわけには行かないのだ。そんな父親の無意識下の言葉が聞こえてきそうである。これは単なる幻聴だろうか。

 「静物」とは本来自ら動く力の無いものを指す。絵画の世界ならば、人物や風景以外の題材を指す。どちらにしろ、人間を描いているわけではないはずだ。それなのに描写されているのは、日常生活である。ここに、何か不定形の得体の知れないものが潜んでいるようだ。小説家とは、日常生活の中で見ようとして見えないもの、見えないのに確かに存在している何か、そういった形而上の異界に踏み込んでいく者なのかもしれない。


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