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『アフリカのひと 父の肖像』ル・クレジオ(集英社)

アフリカのひと 父の肖像

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「父の肖像に見る自己の姿」

 まだフランス語もできなかった頃、なぜかフランス文学が好きだった。シュールレアリストたちや、アラン・ロブ・グリエ、フィリップ・ソレルス、ミシェル・ビュトール等のヌーヴォー・ロマンの作家たちの作品をよく読んだ。もちろん翻訳でだが。ル・クレジオも好きだった。『調書』が面白く、『発熱』、『大洪水』、『物質的恍惚』等を読んだ記憶がある。

 しかし、ル・クレジオには何か他の作家たちとは別のものを感じていた。フランス語に「dépaysement(デペイズモン)」という言葉がある。ある種の戸惑いや違和感をさすのだが、まさにそのような感じを受けたのだ。「pays」は国や故郷を指し、「dé」は「反対」や「分離」等を表す接頭辞。つまり慣れて親しんだ環境から離れて、未知の環境に置かれた時の、いたたまれなさを表している。決して居心地が悪いとは限らないのだが、どうも落ち着かない空間に置かれている。

 当時はそれが何だか分らなかった。フランス人特有の何かなのかと思っていた。しかし、パリに30年近く住んでみると、ル・クレジオの持つ不思議な雰囲気は、一般的なフランス人の持つ香りではないことが分った。一体何なのだろうと思っていたが、その秘密が、この『アフリカのひと 父の肖像』を読んで良く理解できた。

 「私は長いこと母が黒人であればいいのにと望んでいた。」ル・クレジオの母はフランス人で父はイギリス人である。しかし、父は医療将校として22年間アフリカに勤務した。ル・クレジオも8歳の時に父の元を訪ねて、一年余りアフリカで暮らしている。そして、これが彼の主要部分を作り上げている。「感覚が多様になり」、「形容詞から、また名詞からとても遠く離れて」いた。「アフリカ、それは顔よりは身体だった。」

 アフリカ人たちは「人間は母の胎内から出てくる日からではなくして、孕まれた場所と瞬間から生れてくる」という。ル・クレジオは自己の体内に目を向ける時に、「懐妊の瞬間」どころか「懐妊に先立ったものすべて」が「アフリカについての記憶のなかにあるものすべてなのだ」と言う。しかも、それが「観念的な記憶ではない」と断言する。彼は自己を物理的に構成しているものがアフリカであると理解し、それは彼にとって余りにも確かなことなのである。

 この作品は確かに彼の父ラウルの物語である。もちろんそれはラウルとル・クレジオとの関係を確かめるものでもあろう。しかし、これはル・クレジオ自身の物語でもある。父の足跡をたどりながら、彼は自身の存在、そのよって来る所を一緒に探し続けている。「私が絶えずもどりたいと思いつづけているのはアフリカであり、私の子供のときの記憶である。」と彼が述べる時、それは決して甘いノスタルジーなどではない。自分の存在そのものなのに、絶えず失われて、絶えず遠ざかり続けるもの、それが彼にとってのアフリカであり、彼が心から渇望しているものなのである。そして、それこそが彼の持つ、他の作家には無い「raison d’être(存在理由)」なのである。

 この作品の原題は「L’Africain」(アフリカ人)である。「父の肖像」という副題は、訳者の菅野昭正が付けたものだ。訳者はフランス文学の大家であり、訳も非常に読み易い。しかし、私にとってはこの作品は「父の肖像」であるより、ル・クレジオ自身の「肖像」であるように思われてならない。


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