『バウドリーノ』 エーコ (岩波書店)
ウンベルト・エーコは北イタリアのピエモント州アレッサンドリア市に生まれた。彼はピエモント人であることを誇りにしていて、故郷のアレッサンドリアにもなみなみならぬ思いいれをもっているらしい。このほど翻訳された『バウドリーノ』もアレッサンドリア市の沿革が発端になっている。
アレッサンドリア市は12世紀にジェノヴァなど近隣都市国家の援助で誕生した。この小説には20年ぶりに帰郷したバウドリーノが城壁が築かれ、地割りされ、建物がたちならび、どんどん都市らしくなっていく故郷に目を丸くする場面が出てくる。
市の名前アレッサンドリアは時の教皇アレクサンデル三世にちなむ。新しくできた都市に法的な裏づけをあたえるために、アレクサンデル三世に献納するという手続をとったのだ。
都市をローマ教皇に献納するのは裏技だった。当時のイタリアは神聖ローマ帝国の一部であり、皇帝の認可なしに新たな都市を作ることなど許されなかった。アレッサンドリア建設の報に
本作ではバウドリーノはガリアウドの息子という設定になっている。まだアレッサンドリアが影も形もなかった頃、バウドリーノは森の中で狩猟をしていたフリードリヒと出会い、とっさに自分と同じ名前の聖人のお告げと称してテルドーナ征服の予言を伝える。フリードリヒはこの予言をテルドーナとの交渉に役立てようとバウドリーノを実の父親から買いとり、養子にする。
皇帝の養子になったバウドリーノは天性の語学の才とほら吹きの才を愛され、パリに遊学してほら話の技術に磨きをかけ、一癖も二癖もある友人を作る。バウドリーノは友人ともども皇帝の側近にとりたてられる。いかがわしい聖遺物がもてはやされ、都市の盛衰をも左右していた中世にあって、ほら話は重要な政治手段だったのである。
バウドリーノは皇帝のためにさまざまなほら話をでっちあげるが(アレッサンドリアを救った牝牛もバウドリーノのしかけで、軍を引く口実を探していた皇帝は策略と承知でしかけに乗った)、最大のほらは司祭ヨハネの書簡だった。
物語の後半ではバウドリーノは自分がでっち上げた司祭ヨハネ伝説にとりつかれ、司祭ヨハネの国をもとめて、友人たちとともに中世の地理書や旅行記に描かれるままの化物が跋扈する土地を遍歴する。友人の一人、アブドゥラは実在するかどうかすらもわからぬ貴婦人に恋の歌を書きつづるが、司祭ヨハネの国をさがすバウドリーノの情熱もアブドゥラのかなわぬ恋と同じかもしれない。
エーコのことであるから、ここでもうひと捻りある。フリードリヒ一世が率いた第三回十字軍とコンスタンティノープルに襲いかかった第四回十字軍をビザンチン帝国側から記録したとして歴史に名を残すニケタス・コニアテスがバウドリーノの数奇な生涯を聞かされるという物語が全体の額縁になっているのである。
エーコの小説は『薔薇の名前』も『フーコーの振り子』も『前日島』も密室的な印象が強かったが、第四作にあたる『バウドリーノ』は一転して明るく開放的だ。笑いも前面に出てきている。これまで邦訳されたエーコの小説の中では本作が一番とっつきやすいかもしれない。
なお、アブドゥラのモデルになったジョフレ・リュデルの恋愛詩は『美の歴史』に、バウドリーノのほら話の聞き手となったコンスタンチノープルの歴史家ニケタス・コニアテスの『年代記』とバウドリーノたちがでっちあげた(ことになっている)司祭ヨハネの偽書簡は『醜の歴史』に引用されている。