『奇跡』岡本敏子(集英社文庫)
今年は岡本太郎生誕100年ということで、種々のイベントが企画されている。1970年の大阪万博の時私は高校2年生で、修学旅行で万博を見ている。普段は高校3年生で修学旅行に行くのだが、この時は学校側の計らいによる旅となった。物議を醸した「太陽の塔」が、周囲の風景に対し殆ど違和感を覚えさせないものだったのを記憶している。
岡本敏子は戸籍上太郎の養女となっているが、実質上の妻であり良きパートナーであったのは周知の事実である。太郎の死後、彼女の努力によって太郎の業績が評価されるようになった。「芸術は爆発だ」、「グラスの底に顔があったって良いじゃないか」等の発言や、大きな目玉などで有名になったが、「芸術家」としての太郎が認められたのは敏子の功によるところが大きい。そんな彼女が書いた小説が『奇跡』だ。
主人公の笙子は短大を出て、生け花の創光流の事務所で働いている。新進気鋭の建築家、羽田謙介に魅せられ、襲われるようにして関係を持つ。それがきっかけとなり事務所をやめ、母の急死後(父は既にいない)謙介の家で同棲する。二人が肉体関係を持つ様子は、かなり官能的に描かれる。だが、この「官能」はよく読むと本来の字義で捉える方が正しいようだ。五感全てを使って相手を感じ取る、究極の交流である。
自然児的性質を持っている笙子は、無意識の内に謙介の仕事にも良いアドヴァイスを与え、二人は結婚せずとも順風満帆の人生を歩き始めるかに見えたところで、謙介が突然死ぬ。ここまででストーリーは半分なのである。副主人公の唐突な死に、笙子だけではなく読者も戸惑う。
この後笙子は仕事で成功し、何人かの才能ある男に求婚されるが、失った謙介の存在が大き過ぎて、結婚に踏み切れない。だが最終的に一人の男性の中に謙介を見出し、結ばれる事になる。面白いのは、謙介は今で言う典型的な肉食系男子であり、笙子が結婚する相手は草食系男子なのである。笙子は相反する二種類の男性に、どんな共通点を見出したのか、興味深いところである。
巻末に敏子とよしもとばななの対談が収録されている。これが非常に面白い。敏子は主人公の笙子より、とにかく謙介を書きたかったのだという。途中で死ぬ謙介を後半どう描くのかが、この小説の重要な部分なのだ。笙子を敏子に、謙介を太郎に重ねてみる事はできるだろう。敏子もそういう読み方をされる事を認めている。だが、そんな事は関係ない。彼女はただただ謙介を描きたかったのだ。
ばななが敏子に、これは現在の気持ちを書いたものではないかと尋ねると、彼女はこう答える。「過去じゃないものね。あれが現在なのよ。謙介って、素敵でしょ、切ないほど。それを書きたかっただけなの。」太郎はかつて敏子を評して「この人は全然コンプレックスのない人間でね。稀有な人間だよ。つまり塵芥(ちりあくた)みたいなものなんだ。ぼくのような太陽が燦然と輝くから、塵芥も輝くときがあるんだよ」
これは決して敏子を卑下した言葉ではない。太陽によって塵芥が輝くのが事実ならば、塵芥を見る事によって、改めて太陽の存在に気づく人も多いのだから。敏子はそれを良く知っている。ストーリーにむらがあり、文体が統一されていない部分もあるが、そんな事はどうでも良いと思わせるエネルギーと愛に満ちている作品だ。これは岡本敏子という塵芥の「太陽の塔」なのである。