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『恋愛指南』 オウィディウス (岩波文庫)

恋愛指南

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 ラテン文学の黄金時代を代表する詩人、オウィディウスによる恋愛の指南書である。

 オウィディウスカエサルが暗殺された翌年、アペニン山中のスルモ(現在のスルモナ)に生まれ、15歳になると勉学のためにローマに出た。アウグストゥスが帝政をはじめた頃である。ウェルギリウスホラティウスアウグストゥスと同年代だから、一世代あとということになる。

 ウェルギリウスホラティウスアウグストゥスら有力政治家の庇護を受け、ローマの繁栄をたたえる硬派の作品を残したが、子供の世代にあたるオウィディウスはエロチックな恋愛詩で民衆の喝采をはくした。さらには男女の機微をあけすけに書いた本書を上梓してさらに文名をあげた。中期になると露骨にアウグストゥスにごますりをはじめるが、青年時代は反骨精神があったのかもしれない。

 オウィディウスユゴーに対するボードレールにあたるような立ち位置にあったと考えても間違いではないだろう。ボードレールは風俗紊乱のかどで罰金刑を受けたが、オウィディウスには辺境の地に流刑になるという悲劇が待っていた。

 本書は反骨精神が旺盛だった頃に教訓詩のパロディの形で恋愛指南をおこなった長編詩で、洒脱な語り口といい、露悪趣味といい、ローマ社会の爛熟を感じさせる。スタイルは古典主義そのもので、なにかというとギリシア神話を引きあいに出すが、ローマの風俗に言及した部分もある。

 だが君は焼き鏝を当てて髪を巻き毛にして悦に入ったりしないことだ。ざらざらし軽石で脛をこするのもやめたまえ。

 質実剛健をもってなるローマでも、女性にもてるためにパーマをかけたり脱毛したりする軟弱な若者がいたわけだ。共和制から帝政に変わる時期の生活がうかがえる史料としても貴重である。

 女性の望むものも現代とさして変わらない。

 よくあることだが、お目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ。

 オウィディウスは詩人だが詩の限界はよく知っていて、女性には詩よりも贈物だと現実的なアドバイスをしている。

 やさしさあふれる詩をも贈れなどと、どうして私が勧めたりしようか。悲しいかな、詩歌は大して敬意を払われはしない。詩歌は誉められはするが、求められるのは立派な贈り物なのだ。金持ちだというだけで、異国の蛮人でさえも(女たちに)好かれるのだ。まことに当代こそは黄金時代である。黄金のあるところ名誉もまた多く群がり、愛も黄金で手に入る。

「愛も黄金で手に入る」とは身もふたもないが、永遠の真実だろう。

 日本では本当の年齢を聞きだすために干支を訊いたりするが、古代ローマにも同じような手段があった。生まれた年に誰が執政官だったかを聞くのだ。

 何歳だとか、誰が執政官だった年の生まれかなどと、訊いたりしないことだ。そんなことは厳格な監察官の務めである。ことにも女が花の盛りを過ぎ、女盛りも終わってしまい、白髪を見つけては抜いているような場合はなおさらのことだ。おお、若者たちよ、この年頃の、あるいはもっと年増の女は、身のためになるぞよ。こういう畑こそは稔りをもたらす、こういう畑にこそ種をまくにふさわしい。

 ローマ時代にも熟女ブームがあったということだろうか。ローマ女性が恋愛に積極的だったのは確かなようで、こういう一節もある。

 接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ。

 本書は三巻構成になっていて、第一巻は女性と知りあうまで、第二巻は女性をものにするまでのテクニックが披露されているが、第三巻では女性が男性を落とすための技術が指南されている。

 男をつかまえるにはあらゆる機会を使えというアドバイスはいいとして、夫を失った女性に対して夫の葬式がボーイハントのチャンスだと勧めるのはどうしたものか。確かに喪服の女性は美しく見えるが。

 釣り針は絶えず垂らしておくがいい。こんなところにまさかと思う淵にも魚はいるだろう。森に覆われた山を猟犬どもが駆けまわっても無駄だということもよくあるが、誰が駆り立てたわけでもないのに、鹿が網にかかることもあるものだ。縛りつけられたアンドロメダには、涙を流して誰かの心をとらえることのほかに、どんな望みがあるのだ。夫の葬式の際に新たな夫が求められるということがよくあるものだ。髪をふり乱しこらえきれずに泣く姿がよく映るのだ。

 ローマ時代は不倫が盛んだったが、不倫の証拠になるものを相手の男に握られたら危険だという実践的な教えもたれている。

 しかしながら、髪紐を巻くという名誉ある地位はもたないにせよ、旦那に隠れて不貞をはたらいてみたいとの願いをいだいているからには、小間使いや奴隷の不器用な筆つきで手紙を書かせ、心の証となるものを、不慣れな奴隷に託するようなことはしてはならぬ。そんな心の証を後生大事にとっておくような男は信が置けない男だが、とはいうものののやはりアエトナ山の雷霆のようなものを手中にしてはいるのだ。女たちが哀れにもそんな恐怖に蒼ざめて、いつまでも男の意のままにされているのを、この私は眼にしたことがある。

 現代のフェミニストが呼んだら目を剥きそうな条もある。

 男たちは確かに騙すこともあろうが、だからといって、そなたたちがどんな損をするというのだ。なにもかも元通りなのだから。千人もの男がそなたのからだをむさぼったとしても、それで失われるものはなにひとつない。鉄だって摩滅するし火打石も使っているうちに摩り減るが、あの部分だけは存分に使うに耐え、摩耗したりすることはない。

 なんともコメントのしようがない。

 オウィディウスは紀元8年、51歳の時にアウグストゥス帝によって黒海沿岸のトミスに追放される。はっきりした罪状はわかっていない。本書の刊行のためとも、アウグストゥスの孫娘にオウィディウスがちょっかいを出したためともいわれているが、綱紀粛正のためにスケープゴートにされたという説が有力なようである。

 スケープゴートにされたとすれば、オウィディウスがエロチックな詩で有名になったけしからぬ詩人だったからだが、もう一つ、初期においては皇帝におもねらない独立独歩の姿勢を示していたこともあるかもしれない。

 若気のいたりといっていいかどうか本書にはアウグストゥスの機嫌をそこねたかもしれない一節がある。

 つい最近のこと、カエサルが模擬海戦でその模様を再現して、ペルシア軍とケクロプスの末裔(アテナイ人)との軍船をわれわれに見せてくれたが、あのりはまあどうだ。あちこちの海から若者たちが、また若い娘たちがやってきて、広大な全世界がローマ一都の中に収まったかの観があった。これほどの人々が群集まった中で、愛する相手を見つけられぬ者があっただろうか。

 ここでいう「カエサル」はユリウス・カエサルではなく称号としての「カエサル」であり、皇帝のアウグストゥスをさす。アウグストゥスはBC2年、マルス神殿を寄進した記念にヤニクルムの丘に巨大な池を掘ってサラミスの海戦を再現した大規模な模擬海戦を興行した。訳注には「彼はこれを誇りにしていたが、オウィディウスはそれにはふれず、ただ大勢の人が集まるので、男女出会いの場を提供した出来事としか見ていない」とある。確かにこれでは機嫌をそこねるだろう。

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