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『不可能』松浦寿輝(講談社)

不可能

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三島由紀夫は生きている?」

1970年11月25日、三島由紀夫は本当に死んだのだろうか。私は当時高校一年生で、三島がバルコニーで演説する姿をテレビのニュースで見、新聞社がヘリコプターから撮影した、割腹自殺した後の首が転がっているという写真を(はっきりと見えはしなかったが)夕刊で見たような記憶がある。あまりにもセンセーショナルな事件ではあったが、その後種々の検証が行われているにもかかわらず、説得力のある行動理由を説明した解説には出会っていない。

 松浦寿輝の『不可能』の冒頭は三島由紀夫の『サド公爵夫人』の引用から始まっている。しかも三島の本名である「平岡公威」と生没年月日を明記している。主人公の名前は「平岡」であり、無期懲役に服していたが、27年経って仮出獄になった。かつて南馬込の「ヴィクトリア調ふうのコロニアル様式」の家に住んでいて、首に二筋の刀痕がある。これはどう見ても、三島が生きていたらという設定であることは間違いない。

 平岡は金には不自由しないようで、東京西郊の住宅街にコンクリート造りの二階屋を建てて、女中や召使い、書生等に囲まれて暮らしている。広い地下室にお好みの空間を作るために、ジョージ・シーガル風の彫像や音の収録をS・・・君に依頼する。三島フアンには親しい要素が至る所にちりばめられている。平岡自体、三島の雰囲気に加え『禁色』の俊輔に似た部分もあるし、太宰を嫌っている。自分の生まれた時の記憶があるというのは『仮面の告白』の冒頭だ。

 S・・・君は、太宰の『人間失格』の主人公に関し、三葉の写真が残っているというエピソードを持ち出し「この年齢不詳の男が七十になり、八十になって、もう一枚肖像写真を撮られたらどうなる?」と言い、平岡の写真を撮る許可を得る。その後西伊豆に月の光を浴びるタワーを作らせたり、十二人限定の特殊老人クラブの話が出てきたりするが、興味深いのは三島の亡霊との会話である。

 平岡は「距離」が最近縮まってきていると説明する。亡霊は自分には距離はもはや存在しないと言う。どこにでも自由に行けるのだから。だがその言葉に説得力はない。平岡は、亡霊が常に距離に執着していたと言う。「自分と世界、自分と他人、自分と自分自身との間」。亡霊は「研ぎ澄まされた硬い冷たい刃」が「俺の首にたしかに喰い入った。」瞬間だけは「距離は完全に零になった。」と主張する。では平岡は亡霊にとって距離を象徴する存在なのか。亡霊は勝ったのは自分だと言うが、それは事実なのか、それともそう思い込みたいのか。

 平岡は、あの瞬間の三島の迷いが思念化し、増殖したものなのか。大江健三郎は『個人的な体験』において、副主人公の火見子に「多元的宇宙論」というものを語らせている。人が事故や病気で死ぬ瞬間に世界は分裂し、それによって、その人はどこかの世界で人生を必ず全うする。だとすると、平岡はパラレルワールドの住人なのか。

 平岡はS・・・君の助力を得て、自分の身代わりの「作家」を惨殺し、その首なし死体を瞬間移動させるというトリックを演出し、日本を脱出する。S・・・君はこれから仲間を増やし、「攻勢」に出ると語る。平岡はそれもまた面白いかと考え、新たな迷宮を歩むために「また小説でも書いてみるかな」と思う。『金閣寺』の溝口が金閣寺を焼いた後に生きようと思ったように。

 平岡はあの事件のことを「ああいうことも一度はやってみたかったのだ。」と言った。日本脱出といい、トリック殺人事件といい、パロディー的要素もあるが『不可能』は、三島由紀夫割腹自殺を理解するための、メタ化された三島を主人公とした、脱構築小説とでも言えるものだ。個人的な好みとしては、最後の場面でS・・・君と平岡の飲むシャンパンがドン・ペリニョンではなく、クリュッグのヴィンテージものか、せめてサロンにして欲しかったが。


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