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『大往生したけりゃ医療とかかわるな』中村仁一(幻冬舎新書)

大往生したけりゃ医療とかかわるな

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「「終活」のバイブル」

 日本では「終活」という言葉が流行っているらしい。紛れもなく老人大国であるから、それは当然の現象であるし、自分の身の始末を元気な時に考えておくことは、重要なことであるに違いない。だが、我々はなかなか自分の思い通りに死ねない世の中に生きている。病にかかって入院すれば、医者の言いつけ通りにしていないと、怒られるし、追い出されるかもしれない。自分の体であるのに、時として正確な情報も与えられず、檻の中の動物のように「飼われる」だけの状態でいることもままある。

 我が家のモットーは「死ぬまで元気でいること」である。長生きしたいのではない。最後までできる限り「元気で」いたいのだ。病院で種々の管に繋がれ(スパゲティ症候群)親しい人とも会えない形で長い間おかれるのは、誰しも望まないのではないだろうか。もちろん生老病死はコントロールできるものではない。それでも死の「質」を高めることは可能であると思われるし、中村仁一の『大往生したけりゃ医療とかかわるな』はそのための大きなヒントを与えてくれる。

 「医療が“穏やかな死”を邪魔している」、「『できるだけの手を尽くす』は『できる限り苦しめる』」、「がんは完全放置すれば痛まない」等と、がんと闘っている人やがんで亡くなった近親者を持つ人にとっては、穏やかではない見出しが並んでいる。しかし、中村は特別養護老人ホームの常勤医師であり、老人医療の専門家である。故に見出しの過激さには反して、自己の経験から学んだ貴重な証言と判断が述べられている。

 中村はまず我々の医者および医療に関する一般的「常識」の過誤を明確にする。大病院、医学博士、薬、検査等に対する過度の期待を戒める。そして自然治癒力や自然死の大切さを説明し、それを妨げる医療が多いことを指摘する。ワクチンや老人ホームでの死の資料等、具体例が豊富だ。介護の「恐ろしさ」も我々はなかなか気づかないことであろうし、「食べないから死ぬのではない、『死に時』が来たから食べないのだ」というのは説得力がある。

 がんについて一章を費やしているが、がんは理想の死に方であるという。その理由として作者は「周囲に死にゆく姿を見せる」のが人間の務めであり、「比較的最後まで意識清明で意思表示可能」であることをあげている。さらにがんの痛みに関しては、患者の三分の一は痛まないし、残りの患者についても、痛むのは多くの場合放射線治療抗がん剤のせいであるという。その他自分の死についてどのように考え準備するか、興味深い提言がなされている。

 谷川俊太郎がかつて、日本では戦後、人の死を(時として動物の死までも)見えにくくしてしまうことによって、生の意味が見えにくくなってしまった事を指摘していたが、当たっているだろう。中村の言うように、死にゆく者の最後の務めは、残された生者に死の姿を少しでも見せて、彼らがより良き人生を生きることができるようにしてあげることに違いない。

 末期医療が患者本人のためではなく、周囲の者の満足のためになってはいけない。自分では死ぬ時に延命治療を希望しない者でも、家族の延命治療を安易に受け入れてしまう場合が多い。少しでも長く生きることができるという考えには、どのような形で生きるかというQOL(quality of life)が抜け落ちている。罪の意識の罠に陥らずに、真の意味で死にゆく本人の幸福を考えるために、中村の提言は素晴らしいアンチ・テーゼとなっている。


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