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『羆撃ち』久保俊治(小学館文庫)

羆撃ち

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「生と死に対する畏敬の書」

 北海道帯広市の隣に芽室という町がある。ここに弟一家が動物と共に住んでいるのだが、「フチ」という名前の北海道馬がいたことがある。名の由来を尋ねると、アイヌ語で「お婆さん」という意味だと教えられた。また、昨夏車で芽室の畑中を走っている時、用水路の側で「先日ここで山菜採りの女性が羆に襲われて死亡した。」という話を聞いた。山の中でも森の中でもなく、誰でも気軽に散歩していそうな場所だ。

 こんな下地があったからだろうか、久保俊治の『羆撃ち』と出会うことができた。日曜ハンターであった父の影響で、大学を卒業すると共にプロのハンターとなった、小樽出身の作者の半生が描かれている。十九世紀の話ではない、二十世紀半ば過ぎの話だ。自分と何歳も違わない人が、プロの羆撃ちになるという選択をした事に、驚かされる。

 羆や鹿との対決の描写は素晴しい。どんなに優れた作家が数多くのレトリックを駆使してもかなわないだろう。なぜならそこには、事実と体験という、本人にしか分からない感覚が描かれているからだ。鹿を撃ち、解体し、肝臓を食べる。「血の味といっしょに甘い味が口いっぱいに広がる。旨い。手負いで苦しんだり興奮して死んだ獲物に比べて、苦痛や恐怖をほとんど感じることなく斃された動物の肉はこれほどに旨いものなのか」人工的飼料と抗生物質を与えられ、苦しんで死んでいった肉を食べている都会の人間には、羨望すらも許されないような世界である。

 久保は経験と共に、感覚を磨く。何かが違う、と彼が感じる時、そこにはいつも重大な事実が隠されている。このような感覚を私たちは失ってきた。それは生きるための危機感のようなものかもしれない。そして、ハンターは誰よりも、斃した動物の生に畏敬の念と責任を持つ。内蔵や肉を無駄にしないように丁寧に解体したり、「生きるということの凄さ、生きようと懸命に努力する姿を目のあたりにする」ことであったりする。「自然の中で生きた者は、すべて死を持って、生きていた時の価値と意味を発揮できる」私たちは、肉親や大切な人の死から、何かをきちんと学んでいるだろうか。死を無機化することは、生の意味の冒涜に繋がるのではないだろうか。

 後半は、アイヌ犬「フチ」との出会いと別れが描かれる。優秀な羆猟犬として育っていくフチも見事だが、作者の愛情とそれに応えるフチとの強い絆には心を打たれる。私の弟の所にもアイヌ犬(現在は北海道犬と呼ぶらしい)が一頭いるが、身体はそれ程大きくない。こんな小さな犬があの羆に立ち向かうと考えると、その勇気に頭が下がる。飼い主との信頼感無しには有り得ないことであろう。

 アメリカのハンター養成学校での経験も、西部劇を髣髴とさせ興味深い。だが、この作品の素晴しさは、何よりも死と生とを等身大に捉えている羆撃ちの視線だろう。ハンターとは全く縁のない私でも、幼い時に朝から晩まで昆虫を採り、釣りをし、自然と触れ合っていた時の感覚が蘇って来る。キリギリスを見つけ、左手でキュウリの一片を縛り付けた割り箸をそっと出し、食いついた瞬間に右手に持っていた補注網をかぶせる時の興奮。虫かご一杯採って来たコオロギが、夜中に「脱走」してしまい、家中にコロコロと響き渡っていた鳴き声。

 人は他者の死によって生きている。例え菜食主義者でも、植物の死に支えられている。私たちはそんな明白なことを忘れがちだ。生を尊重することは、死を大切にすることである。この厳粛たる事実を『羆撃ち』は、私たちに再認識させてくれる。


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