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『右岸』辻仁成(集英社文庫)

右岸

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「「右岸」と「左岸」はどこで交わるのか」

 辻仁成は器用な作家である。ミュージシャンであり、詩人であり、作家であり、映画監督でもある。しかし、我々はそういったカテゴリーから人を判断するために、ずいぶん「器用」な人だと思ってしまうのではないか。本人にしてみたら、見る方向が違い、ただ何かを表現したい時に、それに合った形を取っているだけで、「器用」と呼ばれる事は心外かも知れない。何にしろ言えることは、彼の小説は「読ませて」くれるということだ。先を読みたいと思わせる力がある。

 『右岸』は江國香織の『左岸』と対になった作品だ。前者は祖父江九の半生を、後者は寺内茉莉のそれを描いている。九は心優しいヤクザ者とその愛人との間にできた子だが、茉莉とその兄の惣一郎と仲が良い。九はある日テレビで外国人の超能力者がスプーンを曲げているのを見て真似すると、見事にできてしまう。超能力少年の誕生である。

 もちろん、少々年配の方ならば、この超能力者がユリ・ゲラーであり、スプーン曲げでは、当時清田君という少年が話題になったことを思い出すだろう。辻のファンであるならば、「辻仁成オールナイトニッポン」というラジオ番組に、清田君がゲストで出演したことがあることも知っているかもしれない。そういった知識があると、余計に先の展開が気になってくる。

 九が10歳の時に、惣一郎は縊死する。この瞬間から九の人生は大きく動いていく。惣一郎とは夢の中で対談できる。テレビ出演の時は失敗したスプーン曲げも、惣一郎の事件後、能力が強くなる。その後、両親との逃亡、父の死、茉莉との齟齬、母との確執等を経て、世界中を旅することとなる。

 しばらくパリで暮らすこととなるが、作者がパリ在住なので、面白い人物たちも登場する。九が出会う、ソムリエ志望で後に三つ星レストランのカヴィストになる林田秀樹は、トゥール・ダルジャンのカヴィストH氏が、一流デザイナーとなる中川竜二は、かつてウンガロの片腕であり、今は独立しているデザイナーのN氏がモデルであろう。こういった「遊び」も楽しい。

 パリで幸せな結婚をしたが、惨事に見舞われ、一時記憶を喪失し、超能力が増し、さらに数奇な運命をたどることとなる。その間茉莉の人生はほとんど分からない。時々九の人生と交差するだけだ。しかし、九は茉莉のことをいつも忘れてはいない。そして九の人生の最終段階において、茉莉との静謐な時間が訪れる。

 これは恋愛小説なのだろうか。ある意味そうとも言える。しかし、それは男女間の愛だけではない。もっと広範囲な恋愛だろう。人類に対する愛、宇宙に対する愛、存在しているありとあらゆるものに対する愛の問題や、心の問題が描かれている。我々と物質との間の愛でもありそうだ。辻は変に問題を抽象化しない。日常的な、あまりにも日常的な要素で作品を組み立てている。スプーン曲げも、念力も、空中浮遊も「日常」の出来事に過ぎなくなる。そして、戻ってくる場所は、人の優しさであり、信頼関係であるという、いかにもシンプルなものだ。それこそが、永遠の事実であり真実であるのかも知れない。

 それにしても、この作品が面白ければ、どうしても『左岸』を読みたくなるし、『左岸』もまた、作家の人となりが上手くいかされた「読ませる」作品となっている。


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