『残夢整理 —昭和の青春ー』多田富雄(新潮文庫)
「残夢から一人の人生を読む」
年末になると、その年の10大ニュースが発表されたりして、一年を振り返ることが多い。また大晦日の前に残務整理に追われる人も多いだろう。多田富雄の『残夢整理』は、晩年に自己の一生を振り返った時に、まるで「残務」のように心に引っかかっている出来事を描いたものだ。多田は免疫学者として著名な存在であったが、能への造詣も深く、エッセイも個性豊かなものである。
最初に登場するのは、江藤淳から高い評価を得て「こういう詩を書いていると、やがて破滅するかもしれない」と言われた、旧制中学時代の友人N君だ。アテネ・フランセに通っていたN君が朗唱する、マラルメの詩の一節にある「百千鳥」がフランス語では「les oiseaux」であり、図書館の屋上から下の群衆を眺め「あんなレ・ゾアゾウは相手にしない」と囁き合う。そんなN君が江藤の予言通りか、落ちぶれて自転車の窃盗で逮捕される。釈放に一役買うがその後ほとんど音信がない。青春の日に輝いていたN君を想い、多田の心は揺れる。
鬼才の画家、永井俊作の思い出は、芭蕉が一笑の墓の前で詠んだ「塚も動け我が泣く声は秋の風」を思い出させる痛哭の一篇である。関君始め、医学部時代の友人達を巡る次の回想も、非常に興味深い。当時の医学進学課程は、医学部に進む前に2年間のリベラルアーツの履修が必須であった。この時代を振り返り、多田は思う。
「医者になるにはもちろん一般教養が必須である。今のような、初めから専門教育一辺倒では、いい医者は育たないと思う。高校を卒業したばかりの青臭い青年に、どうして病気を抱えた複雑な人間を理解できるだろうか。この職業を選ぶためだけだって、二年くらいは自分の適性を熟慮する準備期間があったほうがいい。人間を機械としか見ない工学的思考しか持っていない医者が多くなったのは、リベラルアーツを勉強するという回り道を、たどったことがないからだと思う。」
患部を見て人を見ない医者。ガンは消えたが本人は死んでしまった。このような状況が日常茶飯事となった今、多田の考えには説得力がある。
大病院の息子でありながら、父の遺産を食いつぶし破天荒な一生を送る関君。土井晩翠の孫であり、中野好夫の次男でもあるが、非業の死を遂げる土井君。希代の女たらしだが、相手からは恨まれない不思議な力を持った秦君。三人に—いや多田も含めて四人と言うべきか、共通しているのは「鵺(ぬえ)のような正体不明の動物が体に住み着き、それに突き動かされていた」ということだ。青春時代は誰しもが多かれ少なかれこのような鵺を飼っているのかもしれない。だが多くの人はその鵺を飼い殺しにするのだろう。多田の友人達は、鵺が大きくなりすぎたのだろうか。それは別の言葉で言うと「人間的」なのかもしれないが。遺産もなくなり、矜持を持ちながらも、貧困生活をしていた関君が死んだ後に残したものは、障害者手帳の他多田の著書が2,3冊だった。
多田が免疫学の道に進む契機となった恩師岡林先生は、彼が文献を読みたいというとこう諭す。
「新しいことは文献には書いてない。君は文献なんか読んで、何か分かったような気がしたいらしいが、そんなものは百害あって一利なしだ。
文献を読んで提灯を点けると、足元が気になって一歩も進めなくなる。危機の病理をやろうとするものが提灯点ければ、断崖絶壁で足がすくんだらどうする。いいか。何かを発見しようとするなら、文献なんか読むな。そんなものにはなにも書いてない。自分の目で見たことだけを信じろ。」
この教えを守り、多田は後に免疫学上の重大な発見をする。岡林先生はこうも言う。「病変の局所だけ見るな。背後にある全体を見よ」前例がない、常識とは違う等と言い、新しい考えを認めようとしない硬直した社会への、見事なアドバイスではないだろうか。
この作品の副題は「昭和の青春」だ。昭和に青春時代を送った人には懐かしい場面が多いことだろう。だがこれは単なる回想記ではない。この作品を書き終えてすぐに、多田は唯一動かすことができた左手も動かなくなり、二ヶ月後には幽冥へと旅立つ。決して「残務整理」などではない。「残夢」は彼がこの世に生きた証であり、ここには彼の人生そのものが現れていると言えるだろう。