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『アメリカ遊学記』都留重人(岩波書店)

アメリカ遊学記

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「在りし日のアメリカ遊学記」

 都留重人(1912-2006)が1950年に書いた『アメリカ遊学記』(岩波新書)がアンコール復刊された。今となっては古いところもあるかもしれないが、約11年間に及ぶアメリカ滞在記は、20世紀前半のアメリカを知るには貴重な記録ともいえる。

 都留がアメリカ留学に旅立ったのは1931年9月だったが、当初はウィスコンシン州の片田舎アプルトンに滞在し、ローレンス・カレッジにて2年間学んだ。アメリカに留学したのは、旧制八高の反帝同盟事件にかかわって除籍になり、日本でそれ以上の高等教育を受けることができなくなったからである。「当初は」と言ったのは、いずれドイツに渡って学びたいという気持が強かったからだが、それはもろもろの事情(ヒトラーの台頭にみられる欧州情勢の悪化など)で不可能になったので、「図らずも」11年間もアメリカで学ぶことになった。

 当時ローレンス・カレッジにはハリー・ホワイトやボーバーのような経済学者もいたが、その頃の都留は、どちらかといえば、哲学と心理学を担当していたフリーズ氏、そしてフリーズ氏の推薦で参加したウィスコンシン大学の夏期大学で「論理学」のセミナールを担当したマックス・オットー教授から多くを学んだようである。オットー教授は、「理想を現実のなかから見出し而して現実を理想に近づけることに役立つのでなければ哲学には意味がない」(同書、35ページ)という立場をとっていた哲学者だったが、いかにもプラグマティズムの伝統のあるアメリカで生まれそうな哲学者である。

 2年後、都留はローレンス・カレッジからハーヴァード大学に移ることになるが、あるところで、東部の名門大学と田舎の大学の違いを、大洋航路の客席のなかの一等と二等になぞらえながら説明している。その意味は、一等船客が「一流の著名人や金持や栄華ごのみの人たち」が多く、その雰囲気は"gilded silliness and dull ponderosity"(サンタヤナの『最後のピューリタン』の言葉)ともいうべきものであるのに対して、二等船客は「飾らず又てらわぬ親しさがおのずから身についていて、はるかに人間らしい交わりができる」ということのようだ(同書、19ページ)。つまり、アメリカの大学は「多様性」をもっているのだが、都留はそれを身をもって体験したわけである。

 ハーヴァード大学では、「ソクラテス的方法」による教育で有名だったタウシッグ教授の晩年の授業で「価値と分配の理論」を学び、タウシッグ引退後はシュンペーター教授を中心に集まった有能な研究者や大学院生たち(レオンチェフ、スウィージー、サムエルソン、トリファン、等々)と切磋琢磨する日々が続いたが、1930年代のハーヴァードは、よくいわれるように、「黄金時代」であったと思う(注1)。都留は、とくに1935年から38年頃の時期、ハーヴァード大学が経済学研究の「メッカ」であったというふうに表現している(同書、51ページ)。

 古き良き時代のハーヴァードの「寄宿舎」(アダムス・ハウス)の思い出も興味深い。当時の日本と比較すればはるかに立派な設備によき研究環境と、「贅沢」という言葉がこれほど当てはまるものはない。都留の回想も、いつの間にか熱を帯びてくる。

「物的な設備はともかくとして、何よりも私がアダムス・ハウスについて楽しく懐古することは、数多くの先生と多数の学生とが、それぞれに専門を異にしながら、お互いに入りみだれて、毎日の食事やさまざまの社交的な機会をとおし、あるいは人間としてあるいは学徒として、あるいはスポーツマンとして、たえまない接触の機会をもちつつ勉強ができたということである。ハーヴァードにおける、批判的な精神、広い視野、学問への刺激、人間としての訓練など、このようにして育てられてきたものだと思う。」(同書、69-70ページ)

 ケインズの『一般理論』が出版されてからは、ハーヴァードでは、リッタウアー・センターの行政大学院でおこなわれたハンセン教授の「財政政策セミナール」がケインズ経済学研究の拠点となっていくが、若い研究者や大学院生の間でケインズ熱が高まったのには、『一般理論』刊行以前にロバート・ブライスというカナダ人がイギリスのケンブリッジで学んだケインズの新理論のエッセンスをすでにもち込んでいたからである。

 財政政策セミナーでは、研究者や大学院生ばかりでなく、連邦政府で働く官僚たちも加わって議論が展開されたが、そのようなことが可能であったのは、ルーズヴェルト大統領が旗印とした「ニューディル」の理論的基礎を補強するための作業に関心を持つ官僚たちがいたからだろう(「ニューディールケインズ政策」とは決して言えないが、その時期に理論と実践の間の「切磋琢磨」あるいは「緊張関係」に関心が高まったのは間違いない)。

 都留はそのような光景を目の当たりにしたわけだが、そのような理論と実践の間の相互交渉を高く評価する一方で、「学問の進歩がこのような形で推し進められうるものであろうか」という不安も吐露している。「極端な表現すれば、レパトワをもっている興行師を舞台につれ出してくるという建前になりがちであった」と(同書、86ページ)。のちの都留は現実に役立つ経済学という視点を誰よりも高く評価しただけに意外でもあるが、もしかしたら、日本にいたときから学んでいたマルクス主義の影響がそのような懐疑的意見となって現れたのかもしれない。のちに大きな影響を受けるシュンペーター教授について、「しいて云えば、私は教授のマルクスにたいするおおらかな態度にひかれてもいた」と書いていることにも注目したい(同書、103ページ)。

 都留はハーヴァードで博士号をとり、大学で講師をつとめるようになったが、そこへ日米開戦という大事件が勃発した。「敵国民」がどのような目にあうのか内心不安であったに違いないが、意外にも、ハーヴァードにおける研究生活には何の支障もなかったと書かれている(同書、129ページ参照)。都留は、1942年6月には交換船で日本に帰国することになるが、それ以降の話は「アメリカ遊学」とは関係はないので、ごく簡単な記述があるのみである(本書の出版が1950年だったことを想起せよ)。もっと関心のある読者は、都留が晩年に書いた回想録を参照してほしい(注2)。

1 いまは電子書籍でしか利用できないが、拙著『「ケインズ革命」の群像』(中公新書、1991年)を参照のこと。

http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-9910448483

2 都留重人『いくつもの岐路を回顧して―都留重人自伝』(岩波書店、2001年)

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