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『老い衰えゆく自己の/と自由』天田城介(ハーベスト社)

老い衰えゆく自己の/と自由

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「根源的な生き難さへの問い」

さまざまな研究やドキュメンタリーなどで「素晴らしい介護の実践」や「これからの社会の切り札となる介護」が紹介される時、何か違和感を覚えることはないでしょうか。それは、確かにそれが素晴らしいものであることを心の半分で認めつつ、しかし心のもう半分では、事の背景にある問題がそんなに簡単に片付くものだろうかという疑問、あるいは、そもそもの苦しみや悩みの部分が置き去りにされてしまっているのではないかという疑問のようなものを抱いている、そんな感覚です。この本の著者である天田さんは、1990年代に興隆した小規模介護施設を推進する言説(「小規模多機能サービス拠点論」(注))に対する違和感から論を起こしています。もちろん、そのような小規模な施設では、大規模施設ではとりにくい施設スタッフと利用者とのコミュニケーションが展開されている可能性があります。しかし、その内実を吟味することなく、ただ「小規模多機能サービスこそ、これからの切り札だ」というふうに見せることは、私たちに、それらのケア実践が、あたかも老い衰えゆくことの根本的な生き難さに対する万能の<解決策>であるかのうような印象を抱かせるかもしれません。


注1:小規模多機能サービス拠点論とは、住みなれた地域で(在宅を基本として)暮らし続けるために、「通う」(デイサービス)、「泊まる」(ショートステイ)、「家に来てもらう」(ホームヘルプ)、そして場合によっては「住む」(グループホーム)といった多機能から成るサービスを、各地域(比較的限定されたエリア)を担う拠点が提供する、という構想ないしモデルを指します。比較的限定されたエリアであるために、サービス拠点ないし施設は、住民と顔の見える関係を築けるような小規模なもの(例えば、民家を改造して施設にする、等)となるわけです。

この本でいう「老い衰えゆく」は、いわゆる痴呆(認知症)のことを指しています。しかし、痴呆とされる人がアイデンティティ保持のために必死にあの手この手を弄する(つまり、その点についていえば、私たちと変わらないかもしれない)様子がこの本で描かれていることからもいえるように、天田さんにとっては「痴呆/非痴呆」の区別自体が定かではありません。さらにいえば、「あの人は痴呆だ」ということによって、「正常な私たち」から「痴呆の人」を切り離すアイデンティティの政治に染められている側面があります。そのため、この本では、例えば「ボケゆく」といった言葉ではなく、あえて一般的な「老い衰えゆく」という言葉が選ばれています。

第2章では、老い衰えゆくこと「根源的受動性」が論じられています。「根源的受動性」というのは、老い衰えてゆくことが、本人の意思に関わらずその人に襲いかかってくるものであり、その結果、自己の身体はケアを無防備に「受ける」ものとなり、なおかつそうした苦しみを言葉にすることもままならない、ということを指しています。これは、本人にとっては暴力的とさえいってもよい経験であり、そのことが、しばしば周囲には「問題行動」と呼ばれる行動に結びついている可能性があります。このような苦しみの根深さをふまえれば、それを安易に解決されるものとして見せてしまう言説(先に挙げた小規模多機能サービス拠点論も、その一つ)からは、徹底して距離をとるべきだということがいえます。

続く第3章では、「施設介護(特別養護老人ホームの痴呆専門棟)」「家族介護(実子、長男の妻)」「高齢夫婦介護」という三つの領域において、本人のみならず介護者においても生き難さが深化していく様が、著者自身の調査によるデータを分析しながら、論じられています。そこで浮かび上がってくるのは、老い衰えゆくことに対して人々が懸命に対処しようとするプロセスのなかで、ある種のアイデンティティへのこだわりが生じてしまう、ということです。例えば、高齢夫婦における介護で、介護する配偶者は、以前とはすっかり変わってしまった伴侶を嘆きながらも、その伴侶が「(言われたことや起こっていることを)わかっている」のではないかとしか思えない場面に出くわします。すると、介護する配偶者は、伴侶に対しては、そうした「心」や「感情」がまだある人なのだと認識を再構成しながら、(家族など)周囲の人にもその出来事を話して共有してもらおうとすると考えられます。しかし、そのような微細な出来事を周囲の人が共有して維持するのは難しい。なぜなら、周囲の人が実際に目にするような多くの場面では、やはり「痴呆」としか見えないからです。その結果、介護する配偶者は、自分だけがこの人の「心」「感情」を代弁できるのだ、という思いを深めます。そして、「やはり介護は他人任せにせず、夫(または妻)たる自分がせねば」という思いが芽生え、「夫」あるいは「妻」としてのアイデンティティを強化する形で介護を抱え込んでいくことになってしまいます。

第4章では、1990年代以降先駆的と言われた宅老所やグループホームのケア実践者に対して行われたインタヴューをデータとして、分析が行われています。興味深いことに、これらの実践者は、しばしば自分たちが「無力」で「不完全」だと語ります。これは単なる謙遜というよりも、むしろ、老い衰えゆくことと折り合いをつけ「よりましな場」を目指していく営みとして自己認識していることを指しています。そして、その過程において、「ケアする者」と「ケアされる者」というアイデンティティの対は、しばしば宙づりにされる、と天田さんは分析しています。

(インタヴューでの語り:一部引用者による編集あり)

「ある日、○○さんが穏やかで優しい△△さんを杖で叩いたのですね。それを見て、私はもうキレてしまったんです。『何で△△さんを叩くの! 何もしていないひとをいじめたらいかんでしょう。○○さんは民生委員しとったのやろうが。その名前を汚すとね!!』って叫びました。すると、今度は杖を振り上げて私に襲い掛かってきたんです。あまりにもすごい形相でしたので、ちょうど玄関にたまたま置いてあったカメラを構えて、襲い掛かってくる彼女を写したんですね。だけど、その写真を撮られたことで彼女はさらに逆上して、もう無茶苦茶に叩かれました。気がつくと、私も必死で叩き返していました。その一件があった後、○○さんは私に向かって『おい、S子!』というふうに娘の名前を呼ぶようになっていきました。これでもかこれでもかとばかりに難問を突きつけられて、まるで『分かったつもりでいるなよ!』って言われている気がして、私たちは彼女の存在そのものに圧倒され、強く深く魅かれていきました。(『老い衰えゆく自己の/と自由』204-5ページ)

利用者に対して「キレてしまった」ばかりではなく、襲い掛かってくる利用者にカメラを向け、しまいには叩きあいの喧嘩をしてしまう――ここでは、語り手と利用者との関係はもはや「ケアする/される」といったものではなくなっています。そして、語り手は、このように<起こってしまった>ぶつかり合いの中で「ケアする者」のアイデンティティを脱ぎ捨てる(というよりも、脱ぎ捨てざるをえない)ことになります。この事件を経て、語り手から見た利用者は、自分に対して何らかの信頼を持ってくれる存在になっています。とはいえ――ここが重要なところだと思うのですが――二人の関係は必ずしも安定的なものではなく、むしろ「『分かったつもりでいるなよ!』って言われている気が」たえずするような関係が続きます。つまり、一定の信頼感が持てるようになった関係においてさえ、「ケアする者」としてのアイデンティティは、常に脅かされる弱さを備えたものになるのです。天田さんによれば、優れた実践者たちは、そうした弱さを隠そうとか解決しようとしたりするのではなく、むしろ利用者に対してもオープンにしつつ(「弱さの情報公開」)、ともに「よりましな場」を創っていこうとするスタンスをとっているようです。

このように、データから見えてくるのは、「ケアする/される」ことに関わるアイデンティティへのこだわりが(たとえ一時的にせよ)溶解していまうような営みである、といえます。ただし、これらの優れた営みでさえ完全無欠の<解決策>とは言い難いことは、上に引用した例からも十分に感じとれるのではないかと思います。それらの営みは、老い衰えゆく人との生身の人間としてのかかわりを続けていく中で偶然に産み落とされる性質が強く、また、他の場面への転用が利く「how to」的な知ではありません。このように考えると、老い衰えゆく経験の中で、私たちがからめとられてしまうもの(アイデンティティへのこだわり)から自由になることの確かな理論的根拠が求められるのでしょう。この本の第5章は、著者がそうした理論的根拠を探し求める思索の旅の様相を呈しています。私が思うに、天田さんは、そうしたとらわれからの自由を安易に、かつ楽観的にとらえることを徹底的に警戒し、もしそのような自由があるとすれば、それはあくまでも、私たちが老い衰えゆく身体からの届かぬ声を無視したり忘却するのではなく、たえずそこから<呼びかけ>られ、またそれに<応答>するような関係を築いたうえでのことである、という主張を貫こうとしています。

分量が多いうえに理論的にも高度なので、初学者にはハードルが高いかもしれません。しかし、私たちの社会において根本的な生き難さに目を見据え続けることの重要性を、これほど骨太に論じた本はなく、私が思うところの<社会学らしさ>の真髄を表す一冊といえます。認知症のみならず、様々な病い、あるいは障害にも通じる内容です。向学者は是非一度チャレンジしてみてほしいと思います。

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