書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『きよしこ』重松 清(新潮社)

きよしこ

→紀伊國屋書店で購入

「吃音のことをまったく知らない人が吃音の悩みに安心して接近できる素材」

この本の著者である重松清さんは、著名な小説家にして著作多数。その作品を読んだことがある方も多いのではないかと思います。私は、吃音(きつおん=どもること)のセルフヘルプ・グループに参加して調査研究を行なった経験があり(成果の中で市販されているものとしてはこちら)、そこで知り合った方からこの本を紹介されました。



吃音(きつおん=どもること)とは、ことばの発声が流暢でないことを指します。主に連発性 (同じ音を繰り返す)と難発性 (言葉がつまって発しにくい状態)とに分かれます。年齢とともに連発性から難発性へと移行することが多いと言われており、いつの間にか症状が軽減する場合もありますが、その一方で、成人になっても軽減しないとか、成人になってからひどくなるといったケースもあるようです。また、軽減したといっても、まったく症状が消えるわけではなく、出たり出なかったりする症状の波があります。傍から見て吃音者だと解る人もいれば、他人に解らない程度の吃音で一人悩んでいるという人もいます。吃音は、発声に関わる筋肉の緊張がもとでおこりますが、いかにして緊張を解くかという根本的な部分での解決・治療法は確立されていません。

吃音のセルフヘルプ・グループにいた知人がこの本を紹介てくれたのは、吃音の主人公「少年(きよし)」が、重松さん自身に重ね合わせられた自伝的小説になっており、吃音に関する見下した表現とは無縁である点に関係があると思われます(他の作品には、例えば、ちょっと頭の足りない登場人物が吃音である、といった表現がよく見られます)。

物語はこのように展開します。少年は「きよしこの夜」の歌詞を、星の光る夜に「きよしこ」が我が家にやってくる、と勘違いした。もちろん少年はこの可愛らしい間違いにやがて気づいたが、その時には「きよしこ」は少年の空想上の友達になっていた。しかし、クリスマスイヴの夜…。

私は、大学の授業(いわゆる一般教養授業)の中で、吃音とセルフヘルプ・グループについて紹介する時間を設けていますが、その際、吃音についてまったく知らない学生とともにその悩みの部分にどう接近しようかと少し悩んだことがありました。いくつかの試行錯誤を経た結果、この本、特にタイトルと同名である最初の章(「きよしこ」)を紹介するのが最もやりやすい、と考えるに至りました。その理由は、主人公の内面描写にすぐれており、細かい考えや感情の動きに迫力が感じられるからです。ただ単に「友達にからかわれて傷ついた」というだけでなく、心のひだまで詳細に丁寧に描いている物語は、そう多くありません。いつも授業中にこの本の一部分を朗読してみせるのですが、クリスマス会で無理やり自己紹介をさせられることになった少年が心の中で「助けて、きよしこ」と叫ぶくだりでは、いつも胸がいっぱいになって声がつまってしまいます。

ただ、ここで改めて考えてみると、このような悩みの詳細な描写は、あるバランスの上に成り立っているようにも感じます。この本では、吃音ゆえに上手に自分を表現できない少年が成長とともに遭遇するさまざまな出来事が順次取り上げられていきますが、それら人間関係に関わる出来事には、いつもどこか救いがあります。最初はうまくいかなかったのに最後には心を通わせることができたり、あるいは、最後まで心が通わせられない場合でも、それぞれの登場人物に共感の余地がある背景が設定されていたりします。これは、「あとがき」で「鍵をかけられた心なんて、どこにもない」と述べる著者の信念に関わっており、物語全体を貫いている色調といえます。この「救い」の部分が、ストーリー全体の中で少年の内面的な悩みを中和し、安心して最後まで耳を傾けやすよう機能しているように見えます。また、少年の悩みには例えば「他者への恨み」などいわゆる「キツイ」要素は含まれないし、さらに、吃音の悩みが昂じて少年がひねくれたり他人を傷つけたりする、といったことにもならない。こうした主人公の穏健さも「鍵をかけられた心なんて、どこにもない」という作者の信念・色調と整合しています。

このような穏健さは、この物語自体を「綺麗すぎる」ように感じさせるかもしれません。確かにそうかもしれないと思います。ただ、実はこのようなことがありました。先の授業で紹介する素材について試行錯誤していた頃、もうひとつ使用するかどうか迷っていたものがありました。それは、吃音の人による自己物語で、理解のない教師によってクラスで恥をかかされ傷ついたという話でした。その話も語り手の繊細さが感じられて、是非とも紹介したいと一度は思ったのですが、実は、その物語には、数十年後の同窓会で、主人公がその教師に向かって過去の残酷な仕打ちを告発し戸惑わせる、という結末が付いていました。主人公の恨みは強く、教師の描かれ方にまったく共感の余地がない。心の「鍵」は閉められたままです。吃音の主人公にとってみれば、過去は決して生易しいものではないのかもしれません。しかし、その部分に少々嫌な感じを抱いた(ある種の執念深さを感じた)私は、授業で学生が同様の感覚を抱くのを恐れ、最終的には紹介素材からその物語を外しました。

おそらく、ポイントは、物語の聞き手を敵対的な存在として位置づけて挑発していくのか(「私の恨みは、そんな生易しいもんじゃない」)、それとも、一般的な共感の得やすさにうったえながら好意的な関心を引きだそうとするのか、という戦略的な部分に関わっているのだろうと思います。私が「きよしこ」の方を選んだということは、後者を無難な方針ととらえたことを意味しています。したがって、私にとって「きよしこ」は、「綺麗すぎる」と思われる犠牲を伴いながらも、内面描写の詳細さや主人公の穏健さによって、上述した後者の戦略(一般的な共感の得やすさにうったえながら好意的な関心を引きだそうとする仕方)を可能にする貴重な素材である、といえます。

吃音のことをまったく知らない人でも、違和感を感じる危険の少ない、その意味で安心して吃音の悩みに接近できる一冊だと思います。もちろん、この一冊だけで終わるのではなく、吃音への関心がより高まっていくきっかけにしていただければよいのではないかと思います。


→紀伊國屋書店で購入