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『孕むことば』鴻巣友季子(中公文庫)

孕むことば

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 幼い娘のことばと、それを獲得してゆくさまをみつめる母親/翻訳家の発見と考察とが織りなすエッセイ。


 いわゆる幼児語や、誰しもが必ず通過する「いけないことば」を連発せずにいられないあの一時期、架空のお友だち(著者の娘さんのそれは「アンドちゃん」という)の、その子の想像と希望がまいまぜになった物語など、子どものことばにまつわる、子育てのほほえましいエピソードは、ことばへの深い洞察の入り口となる。そうして「わたしにとって子どもを孕むことは、ことばを孕むことだった」という著者のまえに、つぎつぎと新しいことばの世界がひらけてゆく。

 心にのこったものに、「文字の贈り物」なる一文がある。

 三歳になった娘に渡された一枚の紙切れ。聞くと「しょうせつのおくりもの」だという。「子どもの口からはじめて「小説」ということばを聞いた」母は驚き、娘が「書きことばの世界に足を踏み入れようとしていること」に「複雑な感慨を覚える」。

 「日常会話の途中などで、ごく自然にはじまる」、娘の架空のお友だち「アンドちゃん」の物語。あるとき人から、それを記録しておくよう勧められた著者。

 それにしても、子どもの「口話」を採話して文字におこすというのは、じつに難しいと実感する。右に記した物語も、子どもの溌剌とした語り口で聞くのとはぜんぜん違うものになってしまっている。

 たしかに、文字を習得する以前の子どものことばの世界は、書きことばでは記録しきれない。

 これには私自身にも思い当たることがある。

 最近知り合った七歳の女の子を聞くのがなんとも楽しい。日々成長してゆく年頃の彼女をみていると、ぜひともそれを記録しておきたいと思うが、それは文字におきかえることでは不可能なのだ。七歳といえば当然書きことばの世界も知っているが、それだけではない、この年頃ならではのことばのつむぎかた、発話のテンポや息づかい、これだという表現がなかなかみつからずに言いよどんだり、「なんて言ったらいいのかなあ……」としきりに言葉を探しているときの間、そういうものも含めて、私は彼女の話に感動しているので、これはもう、この場限りものと、必死になって耳を傾けることになる。だからこそきっと、彼女の話は楽しい。それは、何度でも読み返すことのできる本からは味わえないものだ。

 子どもにとっての「読み聞かせ」の重要性や、ことばの習得によって、言語化という回路を介さない子どもの理解力などについてふれたあと、著者はこう述べる。

 ことばを習得するというのは、ある意味、直感を失うことなのだ。そして、さらに書きことば、複雑なものを孕むことばの世界に踏み入ったとき、またなにか大きな自由を手放す。それでも、わたしたちはこれを成長と呼ぶ。なくしてもの以上の豊かさや閃きが文字文化にはあると信じて。

 ことばを扱う仕事を持つ母であるからこそ、我が子の成長を「万感の思いで見つめて」しまう。ここには、子を育て、そのことばの世界に接することに対する、手放しのよろこびだけではない、人としての苦しみや痛みが滲みてでいる。

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