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『エッチのまわりにあるもの――保健室の社会学』すぎむらなおみ(解放出版社)

エッチのまわりにあるもの――保健室の社会学

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「無条件の承認でもなく、まったくの否定でもなく」

この本の著者であるすぎむらなおみさんは、高等学校に勤務する養護教諭(いわゆる「保健室の先生」)です。定時制高校に赴任し、なかなか心を開いてくれなかった生徒たちと文通を始めたことをきっかけに、生徒たちのさまざまな性に関する経験と悩みに直面し、How-To的な対処法がまったく通用しない中で一体どう考えたらよいのかと、著者は自問を重ねます。その成果がこの本であり、取り上げられるトピックは、恋愛とセックスだけにとどまらず、同性愛、外国人生徒の経験する文化的摩擦、(恋人同士の間におこる)ドメスティック・バイオレンス、セクシュアル・ハラスメント、レイプ、等々多岐にわたっています。


実は、私は当初軽く読み流すつもりでこの本を手に取ったのですが、いつの間にか引き込まれ、最初から最後までじっくりと読みました。なぜそうさせられたのかを考えてみるに、おそらくそれは一人一人の高校生たちと向き合ってきた著者ならではの一種の現場感覚に関係があるのではないかと思います。つまり、ここで取り上げられるトピックについて熟考すると、社会や学校文化のゆがみに改めて気づくことになるのですが、、単にそのことを指摘して終わるのではなく、そのような社会の中を生きる彼女・彼たちとまさに向き合っているように感じられたのです。

たとえば、援助交際について書かれた第10章。例として登場する3人の女性たちは、それぞれの複雑な生育環境を背景に、ある種のさみしさを持ち、それを埋め合わせるように「お金をもらう」ことと「褒められる」ことで自尊心を調達しています。交際相手に危害を加えられるかもしれない危険を指摘されても、「わたし、そんなにばかじゃないよ」と歯牙にもかけません。なんと愚かで気の毒な・・・と思ってしまいますが、すぎむらさんの場合は必ずしもそのような書き方になっていないところが面白いと思います。つまり、彼女たちにとって援助交際は、大きな問題はあるにせよ、満たされぬ承認欲求を手早く調達できる手段となり、結果として疑似恋愛的な経験を通してコミュニケーションに長じていく部分もある。実際、3人のその後をみると、アルバイト先で結婚相手を見つけたり、嫌だった家庭を出て独立あるいは進学したりと、みなそれぞれの道を歩んでいるように見えます。かくして著者は「彼女たちが『援助交際』をどうおもっているのか、わたしは知らない。しかし、すくなくとも人生の通過点において『援助交際』の経験がなんらかのかたちでプラスにはたらいたこともまた事実ではないだろうか」と述べています(本書234ページ)。

あるいは、生徒間のセクシュアル・ハラスメントについて書かれた第5章では、性的なからかいや、女子生徒との性体験の仲間内での暴露といった一部の男子生徒たちの振る舞いに問題を感じた著者は、セクシュアル・ハラスメントをテーマとした授業を行ないます。しかし、その効果はほとんど表れません。その男子生徒たちと話し合いの場をもっても、「セクハラはあいさつだ」という信念を彼らは曲げなかったのです。なんと無知蒙昧な・・・と思えますが、ここでもそのような書かれ方には必ずしもなっていません。著者によれば、ある階層の男子生徒たちの間では独特のジェンダー観が持たれており、そこでは、女性を「彼女になるかもしれない」群と、性的対象(セックスフレンド)でしかない群とに二分して、前者に対しては神聖な存在として「ぜったい手がだせん」と思うのに対して、後者に対しては、性行為体験でさえも冗談のネタにして暴露することで、男子生徒仲間たちとの紐帯(つながり)を確認する材料にしている、というのです。つまり、やはり大きな問題はあるものの、平たくいえば彼らには彼らの世界があるということです。

もちろん、著者が鋭く指摘する通り、いずれのケースにおいても、背景に社会や学校文化のゆがみが認められます。援助交際に関しては、「女子高生」がブランド化され男性に商品価値を見い出されるからこそ、援助交際が彼女たちの承認欲求をみたす手っとり早い方法として機能してしまう。また、学校は、生徒の性的な逸脱を禁じることばかりに熱心で、逸脱それ自体については排除的です――著者の言葉を借りれば「生徒から性的なニュアンスを消し去ろうとする学校文化」(本書228ページ)。一方、セクハラに関しては、女性を二分化し、劣位の群にはどのような仕打ちも正当だとする男子生徒たちの考え方自体が、看過できないものです。

ただ、それでも当の生徒たちは、自分を「被害者」や「加害者」とは自覚していません。むしろ彼女・彼たちは、ゆがんだ社会を内面化したまま自分なりに生きていこうとしています。そのような人たちにどう対し続ければよいのか。こう問うたときに出てくるのが、正しくないことははっきりと言う一方で、相手が正論の通り実行するのが難しいときには、その時点での相手のやり方にも部分的な承認を与えるという態度だろうと思います。そして、例えば、「売春」を減らそうとすれば、まず売春をする人が安全にできる環境を整えるべきだという主張(本書237ページ)に表れているように、なるべくその人たちの当座の損害を最小化するような方法に正当性を認めるという姿勢にもつながっていきます。このような<無条件の承認でもなく、まったくの否定でもなく>という態度は、性の問題にとどまらない示唆を含んでいると思います。というのも、どのようなトピックにせよ、社会の問題ある状態を変えていこうとするとき、それが「問題だ」という自覚の仕方自体を必ずしも共有できない人々との関係をどうとり結んでいくのが、しばしば重要になってくるように思うからです。

若い世代の性に関わる問題をどう考えたらよいのかという関心に応えるという意味でも、広く一般に勧められますが、単に正論を説教する本になっていないのが特徴です。私自身も、上に述べた<無条件の承認でもなく、まったくの否定でもなく>という態度について、自分なりにさらに考えていきたいと思っています。

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