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『森敦との対話』森富子(集英社)

森敦との対話

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 今回はちょっと心理学関連の本から離れてみよう。


 みなさんは森敦の『意味の変容』を読んだことがあるだろうか?我々の世代で『意味の変容』といえば、ニューアカブームの頃、柄谷行人が何度も取り上げていたので知っている人も多いかもしれない。私は『月山』は読んだことはないが、『意味の変容』は何十回と読んでいる。全集に載っている『意味の変容』のmakingも何度も読んだ。とにかく私にとって森敦の『意味の変容』は参照点のようなもので、ときどきそこにもどってみたくなるような場所なのである。

 『意味の変容』には初歩的な数学を使った比喩が多用される。そして語られるテーマは、たとえば生と死。死んだ後の世界と死ぬ前の世界が、1つの円の内部と外部として対応させられる。「境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という・・・」こんな一節が大好きで何度も音読し暗唱したものだ。「内部といい外部というも、無限に孕まれるか、無限を孕むかの違いにすぎない」「外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという」なんてね。

 自己と他者、生と死。私が現在でも考え続けているテーマは、この本を読んだ影響が大きかったのかもしれない。私は今でも、ときどき意味の変容を音読(実際に声には出さないが)してみる。私にとって『意味の変容』はテクノみたいに抽象的でリズム感にあふれている、なんていうか、音楽みたいなものなのだ。

 そんな私にとって2004年に出た『森敦との対話』は実に衝撃的な本だった。この本は、最終的に森敦の戸籍上の「養女」となる森富子が書いた、森敦との出会いから芥川賞受賞までの日々の記録である。才能を信じ懸命に小説を書かせようとする編集者と苦悩する作家の濃密な時間が、フィクションともノンフィクションともつかぬタッチで描かれる。

 しかし私にとって興味深く、また驚きだったのは森敦の吐く数々のセリフとその日常行動であった。

 何なんだこのオヤジは。なんて勝手でえらそうなヤツだろう。「現代のスピノザ」なんていわれたストイックな放浪する趣味人のイメージが台無しだ。そうか、これが『意味の変容』の舞台裏か。

 ただ、イメージが一変してもなお、富子と敦のかわす会話が『意味の変容』に出てくるものとまるで同じであることに、私は軽いめまいをおぼえた。この偏屈オヤジが一貫して『意味の変容』の世界を生きていることに感動したのである。森敦の忠実な生徒であろうとする富子の態度は、『森敦との対話』という本を『意味の変容』のよい解説書にする。じつにわかりやすく、『意味の変容』のテーマが説明される。

 しかし、こうして一旦舞台裏を覗いたあと、ふたたび客席にもどって『意味の変容』を読み直してみると、私は舞台で演じられているものの意味が完全に変容していることに気がついた。私にとって『意味の変容』は内部と外部の、そして生と死の矛盾を描き出す論理的な幾何学図形であった。しかし、私はその背景を見落としていたのだ。

 エグい。『意味の変容』はかなりえげつない。何度も描かれる血。殺し。

「牝鹿はヘッド・ライトの中にはいると外に出ることを知らない。牝鹿にはもうヘッド・ライトが時間であり、道であり、世界なんだ。必死になって駆けている。あ、牝鹿がヘッド・ライトからそれた。おや、また時間を道を世界を失いでもしたかのように、あわててヘッド・ライトの中に飛び込んで来た。牝鹿は恐怖の極にあるんだな。美しい真っ白な尻の毛を扇形に拡げた。あれは牡に追われて必死になって逃げながらも、なおそうすることによって誘惑するときの姿じゃないか。・・・・殺れ。いまだ。殺ったな。血は無残に闇に飛び散っているに違いない。・・・」(『意味の変容』より)。うへー、エグイです。誰のことだよ、牝鹿って。



 この『森敦との対話』を読み終えてみて、あらためて人間という生物の業の深さに恐れ入るとともに、小説というものにかける人々の思いを感じ取った。それは、編集者と作家が、幸福な関係であった時代の産物なのかもしれない(今でも幸福だろうか?)。芸術にかける執念。成功と才能への憧憬、そして嫉妬。何かそうした感情を懐かしく感じてしまうのは、私がそのゲームから降りたからだろうか?あるいは時代のなせる技だろうか?


 背景と前景が入れ替わるなんて私も少しは年をとったのかもしれない。森敦が妻と暮らし、そして富子も暮らした東府中周辺を私は歩いてみた。もう当時の面影はないのだろう。競馬場が近い、茫漠とした街である。南に進むとやがて多摩川の堤防だ。私は多摩川べりを歩きながら、例えば人間や街は40年でどれぐらい変容するのだろうか、ということについて考えてみた。


 私ははっとして後ろを振り向いた。そこに、鮮血を滴らせながら、ちぎれた自分の足をくわえている犬がいるように思えたのだ。


 この犬、『意味の変容』にも出てくるんだよね。また近いうちに『意味の変容』も読み直してみよう。


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