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『ムッシュー・テスト』ポール・ヴァレリー(岩波文庫)

ムッシュー・テスト

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 意外なことに、この二年間にポール・ヴァレリーの本が六冊出版されている。

 まず、2003年12月に精神医学者の中井久夫氏訳の『若きパルク/魅惑』(みすず書房)の増補新版が出た。2004年には清水徹氏による『ムッシュー・テスト』(岩波文庫)の新訳、やはり清水氏による評伝『ヴァレリーの肖像』と、新しい世代の研究者、田上竜也氏と森本淳生氏が未発表原稿を編集・翻訳した『未完のヴァレリー』が出版された。今年2005年には東宏治氏と松田浩則氏の共編になる『ヴァレリー・セレクション』が上下二巻本で出て、「方法的制覇」や「精神の危機」、「『パンセ』の一句をめぐる変奏」が手軽に読めるようになった。

 二年間でたった六冊ではないかという人がいるかもしれないが、出版事情の厳しい今、六〇年も前に亡くなった異国の詩人の本がたてつづけに出るのは、やはり異例のことと言ってよいだろう。

 ヴァレリーの本がまた出版されるようになったのには二つ理由があると思う。

 一つはヴァレリー研究が進んだことである。ヴァレリーは「ムッシュー・テスト」を創造するすこし前から、死の直前まで、カイエと呼ばれることになる二万七千ページにおよぶ厖大な日記を書きつづけるが、その全文が1970年頃、ファクシミリ版で公刊され、1980年頃には抜粋版が出版された。また、生前公刊された著作とほぼ同量の草稿と未公刊作品も1980年頃から、パリの国立図書館で閲覧できるようになった。

 こうした未発表原稿から見えてくるヴァレリーは、フランス的知性の体現者という従来のヴァレリー像とはまったく別の顔をしていた。そうした新しい研究の成果がようやく一般読者の手に届けられる段階にいたったのである。

 もう一つは「主義」の凋落があると思う。ヴァレリーはパリ解放直後に亡くなり、ド・ゴール国葬の礼で遇したが、その頃から実存主義マルクス主義が猖獗を極め、ヴァレリーは時代遅れと見なされるようになった。その後に構造主義ポスト構造主義の流行が通りすぎていった。さまざまな主義の大波が寄せては引いていった後の漂着物の散らばる浜辺で、面目を一新したヴァレリー像がふたたび姿をあらわしたというのが現在の状況ではあるまいか。

 さて『ムッシュー・テスト』である。これまで小林秀雄、粟津則雄という二大大家によって訳されてきたが、未刊行作品が参照できるようになった現在、既訳は古くなったといわざるをえない。

 清水訳はどこが新しいのか。

 La soirée avec Monsieur Teste は、昭和七年の小林秀雄の初訳以来、「テスト氏との一夜」という邦題で親しまれてきたが、清水訳では「ムッシュー・テストと劇場で」に改められている。解説によれば「ソワレ」は「マチネ」(昼公演)に対する夜公演のことで、作中に出てくるオペラ座の場面を指しているからだという。

 コロンブスの卵のような指摘だが、これで作品の中心がオペラ座の場面にあることがはっきりした。これまではテストの殺風景な部屋でかわす会話が中心と見なされる傾向が強かったから、重心が大きく移動したことになる。小林秀雄以来、コギトの権化ということになっていたテスト像も、当然、変わらざるをえない。

 オペラ座の場面を見てみよう。

 オペラ座の金色の円柱と一緒に、彼の立ち姿がありありと眼に浮かぶ。円柱ともどもに。

 彼は観客席だけを見つめていた。穴の縁に立って、吹きあげてくる巨大な熱気を吸いこんでいた。彼は真っ赤だった。

 この後語り手は平土間の温気の底に女の肌の輝きとたくさんの扇を見ることになる。なにやら身体の火照りが伝わってくるような異様な光景だが、清水は『ヴァレリーの肖像』でこの条を次のように分析する。

 ヴァグナーらしいオペラの官能的な物語と音楽とに揺り動かされた観客のすべてが、感動のあまり、熱中へと溶けこんでいるなかで、ムッシュー・テストだけがただひとり、観桜の魔力に抵抗しながら、劇場を支配する強度の力学を分析し、要素化しようとしている。――そういう彼の努力それ自体が、彼の身体を欲情の場たらしめてしまう。……中略……「穴の縁」に金褐色に直立するムッシュー・テストをイマージュ・ファリックとして読む。――後年、ヴァレリーがこの劇場の情景を版画のかたちで形象化したものが、そういう読解を否定しようもなく許すだろう。

 屹立する陽根のようなテスト(!)。知性そのものが欲望だという認識は、ニーチェラカンブランショを読んできた者にはなじみ深い。カイエのヴァレリーは、ニーチェラカンブランショに近いところにいたのだ。いや、ニーチェはともかくとして、ラカンブランショヴァレリーの胸を借りて、みずからの思考を鍛えていたらしい。

 構造主義ポスト構造主義の嵐が去った今、われわれは思想の本当の土台にふれられるようになったのかもしれない。

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