『Writing Systems』 Geoffrey Sampson (Stanford University Press)
"A Linguistic Introduction"と副題にあるように、アメリカの言語学者が言語学的視点から書いた文字の概説書である。
最初のページからジャック・デリダの『グラマトロジーについて』が出てくることから察せられるように、著者のジョフリー・サンプソンは理論家を志向しているらしく、文字カタログになりがちのこの種の本としてはすこぶる理屈っぽい。アンドルー・ロビンソンが『図説 文字の起源と歴史』で暗に批判していたのは、どうも本書らしい。
デリダの声の形而上学批判の影響からか、サンプソンは西欧中心主義からの脱却につとめており、全10章のうち3章を極東にさいている。文字言語を音声言語の写しとしながらも、口語と文語の懸隔から、文字言語がそれだけで独立した言語となっている点を明確にした点は注目にあたいしよう。
文字の分類にはつっこみをいれたくなる。(下図参照)。
┌…概念表記
│
│ ┌…複合形態素文字
表記┤ ┌─表語文字┤
│ │ └─単形態素文字
└─音声表記┤
│ ┌─音節文字
│ │
└─音標文字┼─分節音文字
│
└─組立文字
サンプソンはまず「表記体系」を「概念表記」と「音声表記」に二分する。「概念表記」とは数式や道路標識などで、言語から独立に普遍的な意味をもつとしている。われわれが通常「文字」と呼ぶものは「音声表記」に分類される。「音声表記」は「表語文字」と「音標文字」にわかれるが、この区別にサンプソンは言語学者らしく二重分節を導入する。すなわち、最初の分節で切りだされた単位に相当するのが「表語文字」であり、第二分節で切りだされた単位に相当するのが「音標文字」である。
ここまではわかるが、「表語文字」を「複合形態素文字」と「単形態素文字」に二分し、「複合形態素文字」とはわかち書きされた単語だとしている。「音標文字」の下位分類の「分節音文字」とはアルファベットのような音素文字、「組立文字」とはハングルのような結合音節文字をさす。英語版WikipediaのWritingの項の文字分類もほぼ本書と重なっているから、アメリカではこのようなわけ方が一般的なのかもしれない(わたしはクルマスの分類の方を評価するが)。
本書の章立ては以上の分類をある程度反映したものとなっている。
1. 序文
2. 理論的準備
3. 最初の文字
4. 音節文字:線文字B
5. 単子音文字
6. ギリシア=ローマ・アルファベット
7. 組立文字:韓国のハングル
8. 表語文字:中国の漢字
9. 複合表記:日本の漢字仮名混じり文
10. 英語の綴り
各章ではとりあげた文字の歴史的来歴を紹介するとともに、言語学的な機能の視点から理論的な考察をくわえている。たとえば、第三章「最初の文字」ではシュメール文字を論じているが、絵文字が文字に転化するにあたって、シュメール語の膠着語的性格が影響していたと指摘している。
極東の文字に3章をさいた点が本書の特長となっているが、内容的にはどうだろう。
組立文字(結合音節文字)の代表としてハングルをとりあげるのは結構であるが、インド系の文字をまったく無視するのはおかしい。ブラフミー文字を濫觴とするインド系文字は東南アジアに伝わってビルマ文字やタイ文字を生み、北上するや広大なチベット文字文化圏となって中国の漢字文化圏を包囲した。パスパ文字やハングルも、このインド系文字の流れの中から生まれた。
細かいことだが、過去のものとなったはずのアルタイ語族をもちだすのはどうかと思うし、ハングルが普及しなかったのは豊臣秀吉の侵略で国土が荒廃したためだという説明もおかしい。
漢字については「一」、「二」、「三」や「日」、「魚」など、「必然性のある字形」の漢字を説明した後、「単純漢字」と「複合漢字」に二分し、中国語はもともと単音節語だったので同音異義語が多く、それを区別するために「複合漢字」が大量に作られたとしている。欧米の読者にわかりやすくということで、こういう説明になったのかもしれないが、六書をきちんと紹介すべきではなかったのか。
日本の漢字仮名混じり文については複雑さをしきりに強調し、日本の貴族は政治的実権を失い、文化創造だけが仕事になったので、こういう複雑な表記体系をつくりあげたなどと書いていて唖然とした。理論家の暴走であろう。
日本の漢字仮名交じり文は孤立語である中国語から生まれた漢字を、膠着語である日本語が借用したところから練りあげられた表記法であり、同じ条件を負った契丹文字や女真文字との関連で考えるべきだ。
西欧中心主義から脱却しようという意気ごみは理解するが、著者にはアジアの多彩な文字文化に関する知識が決定的に欠落している。この程度の認識しかないとは残念なことである。