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『インフルエンザ危機』 河岡義裕 (集英社新書)

インフルエンザ危機

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 インフルエンザ・ウィルスの人工合成に成功するなど、世界的な業績をあげているインフルエンザ学者による啓蒙書である。その道の権威が研究生活をふりかえりながら、一般読者向けに解説するという古き良き新書の流儀で書かれており、文章が平明なので二時間もあれば読める。

 H5N1型インフルエンザはヒトに感染しやすい方向に着々と進化しており、新型誕生は時間の問題なので、最近のインフルエンザ関係の本は危機感があらわだが、本書は2005年の刊行なので、牧歌的といっていいくらいのんびりした書き方である。しかし、それがよい。新型インフルエンザ関係の本は何冊も読んだが、見通しのよさという点では本書が群を抜いている。本書のおかげで、ジグソーパズルがようやく一つの絵にまとまってくれた。

 語り口はのんびりしているが、よくよく考えると、恐ろしいことが書いてある。

 1997年5月に香港でH5N1型の死者が出た際、著者の河岡義裕氏が現地にはいって調査にあたったことは『四千万人を殺した戦慄のインフルエンザの正体を追う』にも書いてあったが、この時、河岡氏は弱毒型のウィルスが強毒型のウィルスに変異する鍵となる遺伝子を特定している。たった一つのアミノ酸が置きかわるだけで、弱毒型のウィルスは強毒型に変化してしまうという。日本では弱毒型の鳥インフルエンザであっても、全羽殺処分することになっているが、それは弱毒型はいつ強毒型に変わるかわからないからである。

 最近注目されるようになったインフルエンザ脳症のメカニズムについても触れられている。三歳以下の子供はインフルエンザの免疫がないので、肺でウィルスが一気に増殖し、防衛のためにサイトカインという物質が大量に分泌される。それが脳にはいって炎症を引き起こすというのである。インフルエンザ脳症を起こした子供の50%に後遺症が残るという。著者は三歳以下の子供と書いているが、ワクチン接種を受けないまま成長した子供はどうなのだろう。

 タミフル耐性ウィルスが問題になっているが、大人よりも子供の方が耐性ウィルスができやすいという。原因はやはり免疫がないことだ。ウィルスが一気に増えるので、耐性をもったウィルスが生まれやすくなるわけだ。

 インフルエンザの流行を阻止するにはワクチンが決め手になるが、日本とアメリカのワクチン事情の違いは思いのほか大きい。アメリカではスーパーマーケットなど、人の集まる場所に日を決めて看護婦が出張してきて、日本の半額程度でワクチン接種を受けることができるそうである(高齢者は無料)。ワクチンには副作用がつきものだが、訴訟社会のアメリカでそんなことができるとは意外である。ワクチンのリスクが国民によく理解されているのだろう。

 新型インフルエンザ発生後、半年でワクチンが出てくるといわれているが、森田高参議院議員のblogによると、全国民にゆきわたる量にはまったく届かないそうである。インフルエンザ・ワクチンの集団接種が廃止されて以後、大手製薬会社がワクチンから引いてしまい、公益法人と小さな製薬会社が製造しているにすぎない。年間2000万人分を製造するのがやっとで、緊急増産など不可能ということである。

 欧米諸国は半年程度で全国民分のワクチンを製造する体制を確立しているが、日本の場合、全国民分のワクチンがそろうのは五年後になるようだ。その五年間、国民は無防備のまま、くりかえし襲ってくるパンデミックにさらされることになる。市民運動家の妄言に惑わされてインフルエンザ・ワクチンの集団接種をやめたことの重大さにあらためて慄然とする。

 なお、本書は2005年の刊行なので、やや古い。最新の情報を知りたい方は田代眞人・岡田晴恵『新型インフルエンザH5N1』(岩波科学ライブラリー)、個人でできる対策法を知りたい方は岡田晴恵『H5N1型ウイルス襲来―新型インフルエンザから家族を守れ』(角川SSC新書)をお勧めする。

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